- 出演者
- 東野幸治 山田美保子 川田裕美 福田麻貴(3時のヒロイン) 田崎さくら 當真あみ 浮所飛貴(ACEes) 藤井貴彦 高嶋ちさ子 羽鳥慎一 アンミカ
今回は、人気者の知られざる内面を深堀りSP。元々は超ネガティブだったというアンミカが壮絶な幼少期を告白。高嶋ちさ子は前代未聞のコンクールを開催し新たな逸材を発掘。さらに、日テレの同期アナ・羽鳥慎一&藤井貴彦の微妙な距離感が明らかに。
アンミカは独特なワードセンスとポジティブさが幅広い世代に支持され、2024年のテレビ出演本数は332本で女性タレント部門1位に(エム・データ調べ)。最近はドラマやミュージカルにも出演、歌手としても活動しマルチに活躍している。街でアンミカに対するイメージを聞くと「ポジティブ美魔女」、「人生8周目」、「ポジティブなマレフィセント」など、とにかくポジティブなイメージ。一方、「なんでそんなにポジティブなの?」、「そもそも何者なのか」、「何がきっかけでテレビの世界に入ったのか」という疑問の声もあった。
視聴者の疑問「なんでそんなにポジティブでいられるの?」にアンミカは「もともとは内気でネガティブ。ポジティブな母親の言葉で今のアンミカができました」と答えた。年表でアンミカの幼少期を見てみると驚くような不幸の連続。それにも関わらず母親は魔法の言葉でアンミカをポジティブに変えてきたという。
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- アンミカ東京メトロポリタンテレビジョン
アンミカは生野区鶴橋で幼少期を過ごした。5人きょうだいの真ん中で、7人家族は4畳半の一間で生活。他人の家の2階を間借りして暮らしていた。だが、母の持ち前の明るさで子どもたちに貧乏を感じさせなかった。幼少期にいつも見た目をいじられていたアンミカは容姿にコンプレックスを抱いていた。そんなアンミカに母は「本物の美人は一緒にいて心地いい人」と言葉をくれた。長所を見つけるのが上手な母は、アンミカが容姿に自信をなくすたびに「手足が長いからモデル向き」とポジティブワードをかけ続けた。母の言葉で自信を持てるようになったアンミカは小学校低学年にして世界で活躍するモデルを夢見るようになった。
続いては、友達に話しかけるのが怖かったアンミカに母が言ったポジティブワード。幼少期、友達とおしゃべりすることが出来なかったアンミカ。原因は階段から落ちて口の中を大怪我し、内出血で歯茎が黒くなり、笑うと唇がめくれ上がってしまい、友達から「笑うと怖い」と言われてしまったこと。塞ぎ込んでしまったアンミカに言った母のポジティブワードとは。
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- HANA-CHANnelアンミカ
口のけがの影響で人に話かけることが怖くなってしまったアンミカ。母は「会話っていうのは聞く人も大事やねんで」と、「話しかけなくていいから聞き上手になりなさい」と言葉をくれた。人の話を聞いてからしゃべるというのは今でもアンミカの会話の基本になっていて、今では「恋愛相談をしてみたい芸能人(NEXERとハッピーカムカムによる調査)」で2位になるほど支持を得ている。
続いては、貧乏で贅沢できなかったアンミカに母が言ったポジティブワード。ケーキを買ってもらえず、ふと悲しくなってしまったアンミカに母が言った言葉は「どんなに貧しくても考え方1つで豊かになるねんで」。そして、母は夜の市場に行き傷んでいらなくなった傷物のフルーツをたくさんもらい、家でフルーツゼリーやアップルパイを作ってくれた。
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アンミカは貧しさの引け目は感じておらず、家に変えるのがワクワクだったという。当時はお風呂屋さんであまったリンスを10円で売っていたので、毛糸の服をリンスで洗ってほどきセーターにして着るなどしていたという。アンミカは「生きていくための知恵がつくと全部わくわくする」と話した。
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続いては、不幸の連続に打ちひしがれるアンミカに優しい母が言ったポジティブワード。母の言葉でポジティブになっていったアンミカだったが、信じられないほどつらい出来事が次々と起きる。小学生のときに暮らしていた家が1年間に2度も火事に。さらに、母ががんになってしまった。打ちひしがれるアンミカに母が言ったポジティブワードとは。
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アンミカが7歳のときに自宅が2度も火事にあい、最愛の母はがんに侵され入院。そんなときでも母は「自分を信じて苦労の乗り越えたら知恵という道具ができるのよ」と語った。その後のアンミカの人生を支える言葉となった。
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アンミカは貧しいのはよかったが火事や母の病気といった不運には耐えられず、教会の神父に「神様なんかおる訳ない」と楯突いたという。中高では朝は新聞配達をしていて、始めは友人に会ってしまうのが恥ずかしかったが、朝のあまった時間で勉強をして塾に通わずに進学校に進めたので、「私は受け入れられる人。どんなことでも私だからできる」というスイッチが入ったという。
一致団結して乗り越えてきたきょうだいとは今でも強い絆を持っている。兄からは「道は違えど、父、母の名に恥じないよう頑張っているミカは大きな励み」、姉からは「ミカちゃんのポジティブさは多くの経験や困難を乗り越えてきた証でもあるように感じている」など、きょうだいたちからメッセージが寄せられた。
視聴者の疑問「何がきっかけでテレビに出始めたの?」。15歳になり前向きに生きられるようになったアンミカは本格的にモデルを目指し始めるが、書類選考で落ち続ける日々。母の言葉を胸に知恵を絞って発想を転換し、何度も落ちた事務所に電話し直接交渉。会ってくれた事務所の1つがポジティブさを気に入り、所属タレントとして採用。モデルへの道が開けた。
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事務所に入りモデルにはなれたがオーディションには落ち続け、最初はデッサンモデルをしていたという。鳴かず飛ばずのモデル業とバイト三昧の日々、そんな生活を続けて4年、アンミカはパリに行く決断をする。
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- パリ(フランス)
當真あみが映画「ストロベリームーン 余命半年の恋」を告知した。
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- ストロベリームーン 余命半年の恋
鳴かず飛ばずのモデル業とバイト三昧の生活を続けて4年、アンミカはパリに行く決断をする。当時はケイト・モスやナオミ・キャンベルなどパリコレモデルブームで、雑誌にモデルエージェンシーの連絡先が出ていたので、行けばなんとかなるのではとパリに渡ったという。モデルエージェンシー20社ほどに連絡したが1回目はすべて落ちた。「どこが悪いのか」と聞くと着ていった服装をダメ出しされ、「白200色」はこのときに言われた言葉だった。
玉砕し日本に帰ってきたアンミカだが、再びパリ行きのチャンスが。ファッションカメラマンのノーバート・ショルナーさんが撮影した写真が海外で広告の賞を受賞して話題になり、アンミカの顔が世界に知れ渡ることに。さらに、後日デザイナーの山下隆生から声がかかってパリコレ出演を果たした。
視聴者の疑問「どうしてテレビで活躍することになったの?」。そこには4人のキーパーソンの存在があったという。パリコレから3年後、23歳のアンミカは活動の幅を広げようとタレント事務所に所属したものテレビ仕事はほぼなかった。そこで声をかけたのが読売テレビで当時演出をしていた竹内伸治さん。関西ローカルで放送していた「ココロは十八歳未満」という若者のお悩みにアドバイスする深夜番組にお試しで出演すると、臆することなくズバッと発言。過去に裏打ちされた発言力が評価され初のレギュラー番組を獲得。関西でトーク番組出演が急増した。
14年後、37歳のときアンミカの名を全国に広めた人物・山田美保子と出会う。新番組「魔女たちの22時」に出演する美魔女を探していたところ、構成作家として入っていた山田が以前一緒に仕事をうしたアンミカを思い出し、収録1週間前に急遽招集。全国放送の番組に出演を果たし、ここでもトーク力を武器にレギュラーを獲得した。しかし、この当時アンミカは関西弁を抑えてしゃべりもゆっくり。これは当時の事務所の意向だったが、これに対して物申したのがマツコ・デラックスだった。
アンミカの大ブレイクを後押ししたのはマツコ・デラックスのアドバイス。共通の友人の誕生日会で対面したとき、ペラペラ淀みなくしゃべるアンミカに対してマツコは「関西弁使った方が絶対にいい」と助言。これをきっかけに早口全開の関西弁を解放し現在のタレント“アンミカ”が完成した。