- 出演者
- 東野幸治 川田裕美 田原俊彦 斉藤由貴 神田愛花 黒柳徹子
オープニング映像。
黒柳徹子は1953年のテレビ放送開始初日から活躍するテレビ女優第1号だ。今どきの視聴者が聞きたい疑問は「今の芸能界ぶっちゃけどう思ってるの?」。今の芸能界は昔に比べれば全然忖度はないと言った。
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黒柳徹子が忘れられない芸能界の10大トンデモ話を紹介。第10位は「ドラマは全て生放送!なおにセリフを全く覚えてこない大物俳優たち」。当時は映画全盛期、予算が少なく画面も小さいテレビは格下に見られ、銀幕スターの出演は難しい時代だった。そのため、役者は舞台出身俳優が担うことになった。さらに、テレビ開局に合わせてNHKが専属俳優を募集、その第1号となったのが黒柳徹子だった。当時、テレビドラマは生放送で、今では考えられないハプニングが続出した。ベテラン俳優たちほど台本を覚えてこず、カンペ頼りだった。一番セリフを覚えてこなかったのは三木のり平だったという。
第9位は「歌番組はとんでもない中継だらけ!飛行機の到着を遅らせたことも…!!」。スペシャルゲストの田原俊彦が登場した。
第9位は「歌番組はとんでもない中継だらけ!飛行機の到着を遅らせたことも…!!」。スペシャルゲストの田原俊彦が登場した。黒柳徹子が司会を務めた「ザ・ベストテン」は最高視聴率41.9%、1978年から約12年放送した歌番組だ。徹子はランキングの操作をしない条件で司会を引き受けたという。リアルなランキングを作って発表していたため、中にはスケジュールが合わない、出演したくないという歌手もいた。1980年代のテレビは歌番組全盛期、各局は売れっ子歌手をハチャメチャな方法で出演させてきた。多忙な人気歌手が毎週スタジオ出演は不可能なので、各局は生中継でどこへでも出向いた。NHKで収録があった田原を出演させたい日本テレビはNHKの目の前の代々木公園から生中継した。
南野陽子は「歌のトップテン」生放送当日、新潟で行われたコンサートに出演していた。番組はコンサート直後を狙い生中継した。松本伊代は歌番組生放送の当日、別の番組収録をしていた時代劇のスタジオから振袖姿で歌った。CM撮影中の真っ最中だった菊池桃子はスタジオ目の前の建物から中継車に乗って生中継した。斉藤由貴はドラマ撮影の真っ最中、日本テレビはフジテレビの撮影現場から生中継した。
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- あなたを愛したいさいたま市(埼玉)はいからさんが通るオリコンザ・トップテンスケバン刑事センチメンタル・ジャーニーフジテレビジョン卒業卒業-GRADUATION-南野陽子吐息でネット。多摩区(神奈川)抱きしめたい斉藤由貴新潟市(新潟)日本テレビ放送網日本レコード大賞 新人賞松本伊代歌のトップテン生田スタジオ白い炎菊池桃子
神奈川県でコンサートを行っていて生放送の時間帯は移動中だったC-C-Bは移動中のバスから生中継させられた。岡山県でのコンサートを終え、新幹線で東京へ移動中の田原俊彦は名古屋駅に停車する2分間を使って近くのビルから中継した。超多忙だった松田聖子の中継先は飛行機の駐機場だった。中継の時間を飛行機の到着時間に合わせて予定していたが予定よりも早くなる緊急事態に、スタッフは航空会社に交渉して予定通り到着させた。ニューヨークにいた中森明菜を出演させた日本テレビはタイムズスクエアにお祝いを映した。
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- C-C-BDESIRE-情熱-FinRomanticが止まらないザ・トップテンザ・ベストテンタイムズ・スクエアニューヨーク(アメリカ)中森明菜北海道名古屋駅岡山県日本レコード大賞 金賞東京都松田聖子歌のトップテン神奈川県
ある日のザ・ベストテンで南野陽子が歌詞が飛んで歌えなくなってしまった時、徹子はスタッフから台本を取り上げて歌詞を伝えようとしたという。
徹子が司会を務めるのザ・ベストテンでシブがき隊が歌っている時、本木雅弘のマイクケーブルが照明に絡まりまともに歌えなかった。それに気づいた徹子はカメラに映らないように解きに向かった。当時、田原は松田聖子と横並びに立っていたらファンが怒り、新聞のラテ欄に並んでも怒られたという。
第8位は「昔は芸能人の住所や電話番号や納税額が一般に公開されていた」。第7位は「芸能人の自宅がバレていたのでテレビも一般人もやりたい放題」。発売当初の日本タレント名鑑には芸能人の自宅住所と電話番号が書かれていた。テレビでは部屋数や土地代までしっかりリポートしていた。
1970年~2005年までは正しい申告を促し脱税を抑止することを目的で、1000万円超の納税者名と金額が一般公開されていた。高額納税者が発表されると、俳優部門・歌手部門などに分けランキング形式で報道していた。確定申告の時期には芸能人が申告する様子も放送された。徹子は1983年~1985年に俳優部門で3連覇した。徹子は税金が高すぎて勤労意欲を失うとして税率を下げて欲しいと主張、1987年には所得税の最高税率は60%に下がった。1977年、王貞治がホームラン世界記録を達成した翌日、自宅に人が殺到し警察が出動する大騒動になった。芸能人の自宅前から堂々とリポートするのは当たり前で、内装や値段まで紹介していた。
田原俊彦は2日前に引っ越したばかりの新居に突撃された。帰らない取材陣にしびれを切らし、無言で出掛けていった。芸能人の子どもの運動会にもマスコミが潜入、完全プライベートを放送していた。渡辺徹・榊原郁恵夫妻は私生活を隠すことなく公開、結婚披露宴はテレビで生中継され平均視聴率は40%を超えた。飾らない姿に好感度は爆上がりした。田原は失礼な取材にはカメラを破壊していたという。
第6位は「出演者を怒らせた!?MC徹子のとんでもない失言の数々」。「徹子の部屋」は同一司会者によるトーク番組の最多放送世界記録を現在も更新中だ。神田愛花が登場、MCの大先輩に聞きたいことがあるという。徹子は芸人の中で区別がつくのはバナナマン日村だけだと言った。徹子のポリシーとしてはゲストが話した言葉は編集せず放送することだという。徹子は大人気だったゆずに放送終了間際、「頑張っていれば絶対有名になります!」と言ってしまったという。映画の告知をしようとした8歳の鈴木福には「映画の宣伝は後にしてくれない?」と言ってしまったという。援助交際をテーマにした小説を発表した村上龍が出演した際には「援助交際にお詳しいので教えていただきたい」と言ってしまったという。
初孫が生まれた研ナオコに徹子は「初孫があなたと同じ顔だったらちょっとね」と言ってしまったという。せいやは徹子の前で漫才をして「次は笑わせてくださいね」と言われてという。斉藤由貴が登場した。「トットチャンネル」で徹子の役を演じた時に指輪をプレゼントされたという。
第5位は「紅白の生放送が始まってるのに会場に出演歌手が1人もいない緊急事態!」。第4位は「大ベテラン歌手の顔と名前が一致しない!イチかバチかで名前発表事件」。徹子は計6回の紅白歌合戦で司会を担当している。紅白の司会はラジオ時代からNHKを支えるベテランアナウンサーなどが務めていたが、1958年に徹子が大抜擢された。この年、民放各局が紅白に似た音楽番組を生放送、人気歌手は他局での出演後に紅白に駆けつけていたため、夜9時の放送開始時点で歌手は0人だった。ドタバタの中、徹子は開会宣言に臨んだ。
放送開始時点で歌手が誰もいなかった徹子の初紅白、野次が飛ぶ中でアドリブでつないだ。話すネタがなくなった徹子はステージに乱入した犬で場を繋いだ。当時はテレビ普及率が約10%で歌手の顔が分からなかった徹子、到着順で歌うやや場当たり的な進行で現場は大混乱していて、名前をイチかバチかで紹介して大失敗した。紅白のウラ側で出場歌手と司会者が綿密に打ち合わせするシステムは徹子が考案したという。
第3位は「時代の先を生きすぎた!?NHKで社員のとんでもない行動」。第2位は「芸能生活で徹子が唯一涙した…先輩からの暴言事件!」。徹子は絵本の読み方を教えてくれるところを探していて、NHKの採用試験を受けたという。筆記試験で、芝居に触れてこなくて名作や話題作の知識がゼロだった徹子は堂々と答えを聞いたという。発声の実技試験では緊張で次の課題に進んだことに気づかず、セリフをリアル挨拶と勘違いした。
NHK専属俳優の最終面接で徹子は父の経歴もあり面接官も好反応だったが、両親に相談したら「女優なんてそんなみっともないことするな」と言われると言って場を凍りつかせた。徹子は不採用が決まろうとしていたが、NHK新人俳優の教育係だった大岡龍男は多様な人材を集めるべきだと時代の先をいく考え方を持っていた。大岡は徹子の自宅に出向き、反対する父に直談判した。徹子と同期の横山道代と里見京子は徹子は人一倍目立っていたと話した。個性を認められた徹子だったが、個性があだとなってエキストラを帰されたという。指示通り演技できない徹子は稽古にも参加させてもらえなかった。
徹子は先輩に「お前のしゃべり方は変だ」と言われたという。NHKの壁を蹴って足が痛くて泣いたという。
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- 日本放送協会
第1位は「レジェンド歌手 松任谷由実と一触即発!」。ザ・ベストテンではアーティストが出演しないこともあり、1981年に何週にも渡ってランクインしていた松任谷由実も出演しないアーティストの1人だった。番組を見ていた夫の松任谷正隆が「出たら?」と話していたのを聞いた当時のマネージャーが早とちりしてしまい、テレビ局に出演を連絡したところ、その生放送中に登場を告知した。