- 出演者
- 野島博之
オープニング映像。
第3回は「本当は「鎖国」してなかったってホント?」。講師は木村直樹教授。出島のオランダ商館を描いた漢洋長崎居留図巻にはヒクイドリやラケットで遊ぶ人など外国のものが見られた。
なぜ「鎖国」が最近「」つきになったのか。木村教授は、鎖国をした徳川家光は一生のうちに鎖国という言葉を使ったこともなく思ったこともなかった、鎖国という言葉は1801年に翻訳語として登場した、明治になってから江戸幕府に閉鎖的なイメージをつけるちょうどいい言葉として鎖国が使われた、最近は適当な言葉が見つからず「鎖国」などと表記するようになった、海外に興味を持つようになった日本人を反映したような議論と解説した。徳川家康ははじめ貿易推進の立場をとっていた。生糸の価格をコントロールするために特定の商人に輸入の権利を与える糸割符制度を設けるなど積極的な政策を実施。交流していたヨーロッパの国はポルトガル、スペイン、イギリス、オランダなど。イギリスとオランダは優位に立とうと幕府にポルトガルとスペインは布教活動を通じて日本を植民地にするつもりだと献言。この影響もあり幕府は1612年からキリスト教の布教を禁止し、鎖国の第一歩となった。
幕府は旧教国を警戒してキリスト教を禁じた。木村教授は、幕府はポルトガルやスペインは日本まで軍艦を派遣する力はないと思っていた、むしろ日本にいるキリスト教の信者が結集することを恐れたと解説した。家康が20代の頃、三河の一向宗が家康の政治に反発する三河一向一揆が起きた。家康はこの一件で多くの家臣を失った。1637年には島原・天草地域で一揆が発生。3万人余が蜂起し城に立てこもり、幕府は約15万の大軍勢を差し向けた。木村教授は、ポルトガルは民衆の暴動と捉えていたがキリシタンたちは助けてくれると考えメッセンジャーを送った、これを捕まえた幕府はポルトガルが日本にいる限りこういったことが発生すると考えたと解説した。反乱を平定した幕府は全国のキリシタンの弾圧を強め、1639年にポルトガル船の来航を禁止した。
一部の国や人々とのつながりは続き、貿易は行われていた。貿易の窓口は全国に4か所あり「四つの口」と呼ばれる。長崎口にはオランダや中国の船が来航。対馬口では朝鮮、薩摩口では琉球王国、松前口ではアイヌの人々と交易したが直轄地は長崎だけだった。木村教授は、ノウハウを持っていない幕府は元々ノウハウを持っている地域に任せていた、藩には経済的なメリットやお墨付きをもらうことで藩主の力が強まるメリットがあったと解説した。
窓口を任されていた3つの藩は幕府の知らないところで貿易を行って利益を得ていたと言われている。木村教授は、幕府も薄々気づいていたが国家同士の摩擦を避けるために幕府は藩を介して貿易を行っていたと解説した。幕府は朝鮮との貿易再開を図り対馬藩に仲介交渉を命じ、対馬藩は互いの国書を偽造して国交回復に導いた。その後対馬藩のお家騒動を契機に偽造がバレるが、お互いに対馬藩のせいにすることで直接の衝突を避けた。
オランダからはヨーロッパの技術や本が多く持ち込まれたが金額的には中国との貿易の半分ほど。日本からの輸出品は金、銀、銅、陶磁器で輸入品は中国産の生糸や絹織物で西洋の商品は微々たるものだった。一方オランダにとって日本との貿易はおいしいものだった。10人ほどの駐在スタッフでアジア全体の貿易額の約3分の1の利益を稼いでいたとも言われている。
幕府は鎖国体制を幕末まで続けた。木村教授は、東アジア諸国はこの時代どの国も貿易を制限する政策をとっている、江戸幕府はアジアにおけるスタンダードを選択した、江戸幕府は自分たちが海外に行くことは選択肢としてなかったと解説した。秀吉による朝鮮半島への出兵は休戦を挟んで6年にも及んだ。兵役を課せられた大名は疲弊し、豊臣政権の基盤が大きく揺らいだ。木村教授は、江戸時代に長い間紛争がないのは歴史的にもレアなケースだと解説した。
エンディングの挨拶。
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