戦国乱世が終わりに近づくと、大名や女性たちは中国産の生糸で作られた絹織物で着飾るようになった。生糸の需要は高まったが生糸の貿易は中国に拠点を作ったポルトガルが独占、高値で売りつけ日本に貿易赤字をもたらしていた。1609年、家康はオランダ使節と面会しポルトガルよりも有利な条件を与え、代わりにポルトガルよりも多くの生糸を運んでくるよう告げた。クレインス教授は「オランダが舶載してくれると価格高騰のリスクを抑えることができる」「国の間に競走を作ると日本は有利な立場に立てるという考えもあったのでは」と指摘した。平戸の商館には毎年のように生糸を積んだオランダ船が来航するようになり、ポルトガルによる独占は解消されていった。家康は次にイギリスに目をつけ、蝦夷の通行権を与えた。イギリスはポルトガル・スペインに対抗するため蝦夷を通る北西航路を探索していた。新航路を発見すればそれを使って多くの品々を運んでくるという思惑だった。