2023年12月17日放送 21:15 - 22:05 NHK総合

NHKスペシャル
家康の世界地図 〜知られざるニッポン“開国”の夢〜

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オープニング

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家康の世界地図 ~知られざるニッポン”開国”の夢~

スペインの修道院で大切にされてきた日本製の漆器は、徳川家康が海外への主力商品として輸出を奨励したものだった。家康は自由貿易によって日本を世界に開くことで新しい国作りを進めようとしていた。

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家康の世界地図 ~知られざるニッポン”開国”の夢~
萬国絵図屏風

史料には家康が萬国絵図屏風に描かれた世界地図を前に海外に関心を寄せていた様子が記されている。地図の左右には当時世界にいるとされた42の民族が、そしてもう一隻残されていたセットの屏風には世界の覇権を争う国王たちの姿や世界の名だたる都市が描かれていた。オランダの地図製作者だったブラウ家が1607年に出版した最先端の地図が屏風のもとになっていた。家康が屏風を眺めたのはオランダの地図が完成してから4年後のことだった。地図は家康側から依頼した可能性が高いと考えられている。

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家康はなぜ海外に強い関心をもったのか

1600年、家康は豊後国に漂着した船に乗っていたイギリス人航海士のウィリアム・アダムスらを呼び出した。家康はルートについて質問し、アダムスは持っていた世界地図でマゼラン海峡を通り抜けたことを説明した。世界は大航海時代で、ポルトガルは東回り、スペインは西回りでヨーロッパからアジアに至る航路を開き、両国は各地でキリスト教を布教しながら様々な品を売買し巨万の富を得ていた。16世紀後半には新たな勢力としてオランダとイギリスが台頭。2つの勢力は激しく対立し各地で戦いを繰り広げた。日本では家康が関ヶ原の戦いに勝利し、国内の政権基盤を固める一方で外国との新たな関係を模索していた。アダムスは「貿易で国にないものを補い豊かにする」と、家康に海外と貿易する利点を説明した。

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家康の対外政策のビジョンとは

家康の対外政策はどのようなビジョンだったのか、日本の研究チームがヨーロッパ各地に眠る史料の収集と調査を続けその全容に迫っている。書簡の調査から、家康が晩年の20年間に多くの国々と直接交渉していたことがわかってきた。アジアヨーロッパ合わせて13の国や地域と106通もの書簡をやり取りをしていた。家康は自由貿易によって世界の船を呼び寄せて海外の品を日本に集めようとした。研究の中心を担ってきたクレインス教授は「戦乱から国の経済を立て直さないといけない」「海外の貿易を引き入れると国の経済が活性化し成長していくという狙いがあった」と指摘した。しかし前政権、豊臣秀吉の強圧的な姿勢が諸外国の警戒を招いていた。マウリッツ公に宛てた書簡で家康は「日本は取るに足らない国ですがオランダと貿易関係を結ぶという新たな道を切り開きたい」とへりくだり、警戒心を解こうとしていた。ライデン大学のスミッツ氏は「相手がその気になるような誘惑的な書簡を書いた」「狡猾な国際政治家だった」と指摘した。家康を祀る久能山東照宮には、鉛筆や地図の距離を測るコンパスなど海外との貿易で手に入れた品々が残されている。家康は国内の鉱山を開発して銀を蓄積し、貿易を通じて武器も大量に入手した。

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家康が直面した苦境とは

戦国乱世が終わりに近づくと、大名や女性たちは中国産の生糸で作られた絹織物で着飾るようになった。生糸の需要は高まったが生糸の貿易は中国に拠点を作ったポルトガルが独占、高値で売りつけ日本に貿易赤字をもたらしていた。1609年、家康はオランダ使節と面会しポルトガルよりも有利な条件を与え、代わりにポルトガルよりも多くの生糸を運んでくるよう告げた。クレインス教授は「オランダが舶載してくれると価格高騰のリスクを抑えることができる」「国の間に競走を作ると日本は有利な立場に立てるという考えもあったのでは」と指摘した。平戸の商館には毎年のように生糸を積んだオランダ船が来航するようになり、ポルトガルによる独占は解消されていった。家康は次にイギリスに目をつけ、蝦夷の通行権を与えた。イギリスはポルトガル・スペインに対抗するため蝦夷を通る北西航路を探索していた。新航路を発見すればそれを使って多くの品々を運んでくるという思惑だった。

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家康が抱いた壮大な野望

家康は外国船を呼び寄せるだけでなく、日本自ら世界に海に乗り出すという野望も抱いていた。アメリカ大陸に植民地ヌエバ・エスパーニャを設置したスペインは、アカプルコを拠点にヨーロッパからアジアにまたがる世界中の品々を取引していた。家康はそこに日本の船を送り込み、現地で直接売買することで新たな貿易利益を手に入れようとしていた。さらに現地に渡った日本人には、現地の最先端技術を学ばせようとした。スペインの航路に参入するのは容易でなく、何度もスペイン国王に許可を求めて書簡を送っても拒まれ続けた。そんな中1609年にスペイン船が日本の近海で座礁し、乗っていたのはスペイン国王に使える重臣の1人であるロドリゴ・デ・ビベロだった。家康は日本がスペイン航路に参入する許可をもらえるよう交渉したが、ビベロが出した条件は「キリスト教の教会やミサを許可する」など強気なものだった。家康は「オランダ人を国外追放する」「スペイン人が鉱山を発見した場合利益の4分の3を与える」の2つ以外はすべて条件を飲むと伝えた。リベロが帰国した翌年、スペイン国王から家康のもとに洋時計が贈られた。1613年にはスペインで通商の許可書が作られ、家康に送られることになった。その頃日本では大坂の陣が勃発。勝利した家康は政権基盤を盤石にすることに成功したが、許可書がスペインから届くことはなく家康は75歳でこの世を去った。その後家康が禁教令を発したという情報がスペインに届き、許可書の発送は差し止められた。後を継いだ秀忠は家康の対外政策を転換させ、ヨーロッパとの貿易を制限した。1641年に幕府は貿易を長崎でのオランダ相手のみに限る鎖国体制を固めた。

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エンディング

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