2023年12月16日放送 15:55 - 16:45 NHK総合

NHKスペシャル
選 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編

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オープニング

オープニング映像。

映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編

100年前に撮影された関東大震災当時のモノクロ映像を8K映像に高精細化すると、記録されていながら不鮮明だった情報を引き出すことができた。カラー化映像と証言音声によって謎に包まれていた震災の全容を解き明かす。

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映像記録 関東
1923年9月1日午後4時

1923年9月1日午後4時前、隅田川沿いの陸軍被服廠跡に避難者が殺到した。軍服工場が移転したあとにできた広大な空き地で「何かあったら被服廠跡へ」が地元民の合言葉だった。地震発生直後の被服廠跡を撮影した写真では、広場のあちこちで水道管が破裂し足元は水浸しになっていた。4万人が避難したが、数時間後には焼け焦げた遺体で埋め尽くされた。現在は東京都慰霊堂が建っており、中に掲げられている絵には火災旋風が人々を襲う様子が描かれていた。なぜ火災旋風が起きたのかは今も謎のままだが、建築研究所の協力を得て火災旋風発生のメカニズムの解明を試みた。9月1日午後、観測データでは強い南風が吹いており被服廠跡を取り囲むように3方向から火災が迫っていた。100分の1スケールで当時の地図と風を再現して火を起こすと、巨大な火柱が立ち上った。被服廠跡の脇を流れる隅田川上では南風が障害物がないためスムーズに流れていたが、市街地の風は流れが遮断され弱くなっていた。専門家は被服廠跡の外側と内側で風邪の速度差が生まれたことで火災旋風が発生した可能性が指摘した。午後4時頃高さ数十メートルが広場の外側で火災旋風が発生した。火の粉が持ち込まれていた家財道具に燃え移り、広場の中で新たな火災が発生。火災旋風はそこに引き込まれていった。避難した4万人のうち3万8千人が命を落とした。

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9月1日夕方、家を失った100万以上の人々が東京中をさまよっていた。東京駅の駅舎やホーム、停車中の列車は即席の避難所となった。50万人が避難した上野公園では群衆の中で家族を探す声が飛び交った。皇居前広場も臨時の避難場所となり、30万人が避難した。当時9歳でのちに作曲家・三木鶏郎として知られる繁田裕司もこの場所に逃げ込んでいた。

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1923年9月2日午前6時

震災2日目の朝、上野では周辺の火災の勢いは弱まりつつあり人々は安堵の中にいた。カメラマン岩岡巽は震災2日目の上野の様子を映像に収めていた。浅草の火災は前日の夜に勢いを弱めていたが、前日昼間の南風が夜のうちに北風にかわり上野の方に火の手を伸ばしていた。上の駅周辺の線路に避難した人たちを映した映像には、はしごを崖にかけ高台の上野公園によじ登ろうとしている人の姿も映っていた。岩岡は上野公園に登り撮影ポイントを移した。多くの人たちの目は火災が迫る駅方向に釘付けになっていた。最初の映像から4時間後、午前10時頃の映像では火が容赦なく上野に迫っていた。午前11時頃に岩岡は上野広小路に移動。ここでは火事が近づいているのは見えず、安心して休んでいる人の姿も映っていた。9月3日以降に撮影された映像では上野広小路は一面焼け野原となっていた。猛火は上野駅までは焼き尽くしたが、上野公園までは及ばなかった。消防隊は不忍池から水を汲み出して火を消しとめた。上野の火災を最後に東京の火災はほぼ収束した。

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家を失い郊外に避難する人も多かった。飯田橋周辺で撮影された映像では、牛込駅のホームに疲れ果てた様子で座り込む人の姿が映っていた。線路上の貨車には三木鶏郎の父親、繁田保吉の名前が書かれた張り紙があった。一家は皇居前に避難したあとより安全な場所を求めてこの場所にたどり着いていた。三木本人と思われる少年の姿も映っていた。この映像や被服廠跡の映像を撮影していた白井茂は「その時分何でも『殺してしまえ』という言葉がはやった」などと語っている。家族や家を失った人々の心は荒み、疲れ切っていた。

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1923年9月3日~

文京区にあった警察署が関東大震災の直後にまとめた報告書の中では「流言浮説」という現象が報告されていた。平常心を失った人々の間でデマが広まっていった。非常時にデマが広がるメカニズムを研究してきた東京大学の佐藤教授は「不安を抱えて緊張している状態の中で解釈が暴走していく」などと指摘した。ラジオがなかった時代、新聞は最大の情報源だったが東京の新聞社は地震と火災で新聞を発行できなくなっていた。人々は交番に駆け込んで流言の真偽を問い質したが警察も機能していなかった。政府は東京に戒厳令を出し、軍隊に治安維持を委ねた。確かな情報がない中流言を信じた人たちは異常な行動に駆られていく。神楽坂周辺で撮影された映像では、リヤカーなどで道を塞ぎ即席の検問所を作っている自警団の姿が見られた。朝鮮人が混乱に乗じて放火や井戸に毒を入れたという流言が広まっていた。9月3日には流言を信じた政府や警察までもが朝鮮人の取り締まり強化を通達。軍人や警官が罪なき人に手を下した例もあったと公式記録に残っている。司法省刑事局の調査によれば立件されただけでも殺害された人は231人、別の調査では数千人が犠牲となったという報告もある。司法省の調査では朝鮮人が流言にあるような犯罪にはしった事実は認め難いと否定された。

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1923年9月4日~

震災から1週間余が経った頃の田端駅を撮影した映像では、駅へと続く道に大勢の人がひしめき合っていた。政府は下り列車を無料化し、食糧不足で困窮する被災者を東京から地方に送り出していた。田端駅のそばの家に住んでいた芥川龍之介は焼け野原と化した東京を歩いて周った。変わり果てた東京を嘆きながらも、「煙草や梨をすすめ合つたり互に子供の守りをしたりする景色は殆ど至る処に見受けられたものである」「大勢の人人の中にいつにない親しさが湧いているのは兎に角美しい光景だった」などと手記に残している。震災から2週間余が経ち、日比谷公園では被災した子どもたちを集めて青空教室が始まった。上野公園の西郷隆盛像は人探しの張り紙でいっぱいになり、園内の職業紹介所では人々が列を作った。9月23日に使い物にならなくなった浅草凌雲閣が爆破され、多くの見物人が跡地に殺到した。震災から四十九日にあたる10月19日、3万8千人が命を落とした被服廠跡では合同大追悼式が開かれた。関東大震災で東京市の4割が消失し、7割の人が家を失った。死者は10万5千人を超えた。東京大学の地震学者、今村明恒は震災の18年前に大地震が東京を襲うと警告し備えを訴えたが世間に「ホラ吹き」と攻撃された。震災後に今村自らカメラを買い求め撮影した映像では、全国各地を講演してまわった今村の姿が映っている。今村は私財をなげうち全国8か所に観測所を設置した。東京は奇跡を呼ばれる復興を遂げ1930年3月には帝都復興祭も開かれたが、防災対策は不十分なままだった。今村は死の直前まで人々に防災の大切さを訴えた。東京都防災会議の報告書によれば、今後30年以内にマグニチュード7を超える首都直下型地震が起きる確率は70%。

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(エンディング)
エンディング

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