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「ジョー・ディマジオ」 のテレビ露出情報

1920年代、空前の好景気に湧くアメリカでは新たに「フラッパー」と呼ばれる女性たちが誕生した。欲望を解き放つことが許容され、婚前の性交渉が一般的となるなど性道徳が一変していったこの時代、ロサンゼルスでノーマ・ジーンという女児が生を受ける。ノーマの父は彼女が生まれる前に家を出ており、心を病んだ母は精神病院に入院していた。幼少期を孤児院で過ごしたノーマの孤独を癒やしたのは、銀幕の中に描かれる世界だった。やがて太平洋戦争が勃発すると、15歳になっていたノーマは軍需工場で働くことになる。ここで士気高揚のために軍のカメラマンからモデルになるよう依頼を受けたことが、ノーマの人生を一変させた。撮影された写真を芸能エージェントが目にしたことで、ノーマは1946年にハリウッドのプロダクションと契約を結ぶ。契約に際して決められた芸名は、「マリリン・モンロー」という名前だった。
女優としてのキャリアをスタートさせたモンローだが、その道程は順調なものではなかった。初出演した映画の演技は平凡と非難され、契約はわずか1年で打ち切られてしまう。そんな彼女の魅力を引き出したのが、数々の女優のパトロンをしていた大富豪のジョニー・ハイドだった。彼の助力によって演技指導や整形で自身を磨いたモンローは1950年の映画「アスファルト・ジャングル」で披露した官能的な演技で高い評価を受ける。その後も男性を魅了する女性を演じ続けてヒットを重ね、モンローは瞬く間にスターの座を駆け上がっていった。時代のセックスシンボルとなったモンローは世の男性を虜にし、1954年の1月には大物メジャーリーガーのジョー・ディマジオと結婚。しかし、映画「七年目の浮気」でモンローがスカートを舞い上がらせる演技を目にしたディマジオは激怒し、1年ともたず両者の関係は破綻する。10月には離婚協議に入り、モンローとディマジオの結婚生活はわずか9ヶ月で終焉を迎えた。
同じ頃、バージニア州には全米の注目を集めたカップルがいた。白人男性のリチャード・ラビングと黒人女性のミルドレッド・ラビングである。夫妻となっていた2人は異人種間の結婚を禁止する法律に違反したとして逮捕され、有罪判決を受けていた。故郷を追放された彼らはワシントンのスラムへ追いやられたが、決して別れようとはしなかった。この一途な愛は、やがて世界を変えていくことになる。
一方、ディマジオと別れたモンローは劇作家のアーサー・ミラーと新たな恋を紡ぎ、1956年に結婚。ミラーの勧めで俳優養成所に通ったモンローは俳優としての再出発を果たし、1961年には夫が脚本を担当した「荒馬と女」で自立した女性を演じる。しかし、セックスシンボルとしてのマリリン・モンローを求める大衆の需要とは噛み合わず、興行は大失敗。私生活では二度の流産に見舞われ、ミラーとの結婚も破綻。再び全てを失ったモンローは、黒人や女性への差別解消を打ち出していた若き政治家のジョン・F・ケネディと出会う。ケネディの理想に共感したモンローは1960年の大統領選でケネディの支援に尽力し、彼が大統領となった後はさらに関係を深める。しかし、既に妻子を有していたケネディとの関係は極秘のもので、FBIから警告を受けたケネディはモンローとの関係を絶ってしまう。孤独に苛まれたモンローは薬物やアルコールに逃避し、1962年8月に睡眠薬の過剰摂取によって亡くなった。身寄りのない彼女の葬儀を取り仕切ったのは、かつての夫であったジョー・ディマジオだった。
モンローの死の翌年、ケネディは人種差別を禁じる公民権法の制定に向けて動き出していた。人種差別撤廃の機運が高まる中で、かつて結婚の罪で有罪判決を受けたラビング夫妻は判決の取消しを求めて司法長官であったロバート・ケネディに手紙を送った。ロバートはアメリカ最大の人権団体から弁護士を派遣させ、2人が判決の取り消しを求めて起こした裁判を支援する。裁判は連邦最高裁にまでもつれ込んだが、身の危険を感じた2人は法廷に立つことはできなかった。リチャードから「私はただ妻を愛しているだけなんだ」との言葉を預かった弁護士は法廷で「異人種間結婚の禁止はアメリカ憲法の精神に反している」と訴え、4年の歳月を経た1967年にようやく2人の訴えが認められる。この判決後に全ての州で異人種間結婚を禁止する法律は撤廃され、夫妻は故郷のバージニアに戻って暮らしたという。
マリリン・モンローの死から11年後、イギリスでは彼女の孤独を題材にした「キャンドル・イン・ザ・ウインド」がヒットを飛ばした。この曲を生み出したアーティスト、エルトン・ジョンは同性愛者であると告白したことが原因で、レコードの売り上げが急落するなど厳しいバッシングを受けていた。男性の同性愛者から広まった未知の病「AIDS」の流行もその偏見に拍車をかけ、追い詰められたエルトンは音楽活動を離れて薬物に依存するようになる。同性愛者への偏見が蔓延する状況を変えたのは、ダイアナ妃の行動だった。ダイアナ妃は1987年にAIDSの専門病棟を訪れて患者と素手で握手を交わし、患者への偏見を打ち砕いたのである。自身も不幸な結婚生活を送っていたダイアナ妃は、エルトンの「キャンドル・イン・ザ・ウインド」を聞いては自身とマリリン・モンローを重ねていたという。しかし、それから10年後の1997年8月、ダイアナ妃は交通事故によりマリリン・モンローと同じ36歳で死去する。葬儀に駆け付けたエルトンは彼女の愛した曲「キャンドル・イン・ザ・ウインド」の歌詞を書き直して演奏し、その死を悼んだ。
ダイアナ妃の死後、ブレア首相は同性愛への支持を表明しLGBTへの法整備に取り組んだ。これを契機として同性愛への支持は一般の間にも広がり、2005年には同性パートナーシップ制度が定められる。その記念すべき最初のカップルとなったのは、エルトン・ジョンとパートナーのデイヴィッド・ファーニッシュの2人だった。この動きは世界に広がり、2015年にはアメリカでも同性婚の合計判決が下される。判決を導いた連邦最高裁判事、RBGことルース・ベイダー・ギンズバーグが判例としたのは、48年前に結婚が認められたラビング夫妻の判決だった。30ヶ国以上に同性婚の制度が拡大する中で、エルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウインド」は人種や性別を越えたラブソングとして歌い継がれている。その題材となった、マリリン・モンローことノーマ・ジーンはこう語っている。「もしも私があなたを幸せにできたのなら、それは世界で最も偉大で困難なことを成し遂げたということ。だって、人を幸せにしたのだから。愛は人間界に隠されている奇跡なの」。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年6月17日放送 20:54 - 21:54 テレビ東京
開運!なんでも鑑定団(開運!なんでも鑑定団)
愛媛県・新居浜市でお好み焼き「石」を経営する南波誠さんのお宝はメジャーリーガー ジョー・ディマジオのバット。ジョー・ディマジオは1932年にサンフランシスコ・シールズに入団するとすぐに当確を表し、1936年にはニューヨーク・ヤンキースに移籍した。移籍後1年目は打率.323など好成績を残し、翌年には本塁打王を獲得した。1941年には5月15日にホワイトソックス[…続きを読む]

2025年6月12日放送 15:45 - 19:00 フジテレビ
イット!三宅正治の極ネタ!
大谷翔平が5年連続5三塁打30HRの偉業を達成。84年ぶりで過去には元ヤンキースのジョー・ディマジオが達成している。ジョーは、ベーブ・ルースと並ぶ伝説のバッターで56試合連続ヒットを記録しており、まだ破られていない。

2025年6月8日放送 21:00 - 22:00 NHK総合
NHKスペシャルさよならミスタープロ野球 長嶋茂雄
2003年、松井はヤンキースに移籍した。メジャーリーグに憧れ続け現役時代に移籍の話もあった長嶋は、自らの夢も松井に託していた。長嶋は、56試合連続ヒットの記録を持ち、ファンのために全力プレーを貫く姿勢から「野球選手の鑑」と呼ばれたジョー・ディマジオに強い憧れを抱いていた。松井はヤンキー・スタジアムでのデビュー戦で、満塁ホームランを打った。2006年に左手首を[…続きを読む]

2025年6月4日放送 19:30 - 19:57 NHK総合
クローズアップ現代#5015 長嶋茂雄と松井秀喜 ふたりでかなえた夢
運命のドラフト会議から10年後となる2002年。松井秀喜はメジャーリーグ挑戦を表明。会見前日、松井は長嶋茂雄に決断を伝えていた。ヤンキー・スタジアムでのデビュー戦、松井は満塁ホームランを放った。挑戦4年目、松井は左手首を骨折。巨人入団1年目の途中から13年間続けた連続試合出場は1768で途切れた。そんな時、松井の元に一本の国際電話がかかる。その2年前に脳梗塞[…続きを読む]

2025年5月19日放送 11:55 - 13:55 日本テレビ
ヒルナンデス!出口調査 業務スーパー
業務スーパーにいるお客さんに食費を抑える節約術についてインタビュー。イタリア料理の店を開いて26年になるという福地さんが家でもマネできる簡単イタリアンを伝授してくれた。業務スーパーの冷凍パプリカを使った7種類の野菜入りペペロンチーノのレシピを紹介した。

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