1990年、日本の自動車産業は活況のさなかにあった。中でもトヨタ自動車は年間生産台数489万台で世界の頂へと迫っていた。その躍進を支えたのがトヨタ生産方式だった。必要なときに必要な量を生産し在庫を最小限に抑えた。その支えの一つがバーコードだった。部品の種類や行き先などの情報が記録されていた。バーコードの読み取り機の開発は自動車部品メーカーの中の小さな部署で行われていた。1992年のある日、エンジニアの原晶宏の元に、工場の作業員から「バーコードの読み取りが大変。工場が混乱している」という電話が入った。工場を訪ねると1つの部品箱に10個以上のバーコードが並び作業員が1つ1つ読み取っていた。車の多機能化が進み部品の情報量が急増したためだった。原はすぐに解決策を考えた。自動車メーカーに就職しながらも読み取り機開発一筋の一匹狼だった。原が目をつけたのはアメリカの2次元コード。コードを取り寄せ検証するも読み取りの精度が低く時間もかかった。原はこれはチャンスだと思った。原の父は電子部品の分野で特許を持つ腕利きのエンジニアだった。原は高校生の時のよく父と囲碁を打っていた。そのときに世の中に無いものを作るエンジニアになりたいと父に打ち明けた。寡黙な父は「蒔かぬ種は生えぬと」と言った。2次元コードの開発は原にとって父を超える挑戦でもあった。上司に直談判し2年の時間をもらった。原は父が元気なうちに成果をださないといけないという思いで2次元コードの開発に命を懸けた。メンバーは渡辺元秋と2人だけだった。渡辺は生真面目で口下手なエンジニアだった。指示待ち人間だった渡辺は自らをコバンザメと卑下していた。
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URL: http://www.denso.co.jp/ja/
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