紙の大きさにAとBがあるのはAだけだと日本人にしっくりこなかったから。紙の博物館の西村氏が解説する。日本で西洋式の紙を作る工場ができたのは明治8年。渋沢栄一が作った。当時日本には植物の皮の繊維から作られた和紙があったが、西洋紙の多くはボロ布の繊維で作られていた。余った布では量に限りがあったため明治22年に海外の技術を取り入れ、木の繊維で紙を作る工場が日本に誕生した。当時の紙には「菊判」「四六判」様々な大きさがあったが、明確な大きさは決まっていなかった。国は工業製品の企画を統一することに。大蔵省印刷局の矢野道也は海外の紙に関する書籍を集め、菊判と四六判に近い大きさを探した。ドイツで使われていたA判は菊判とほぼ同じ大きさだった。ドイツのA判は半分にカットしても縦横の比率が同じで、複数のサイズが作れるというメリットがあった。小説などに使われていた四六判にはA判の大きさが合わなかったため日本独自のB判を作った。海外にもその国独自の紙の大きさがある。
