アフガニスタン東部の山岳地帯・ダラエマワに小さな診療所があった。開いたのは医師・中村哲だった。薬も医療機器も少ないが中村は目と耳で丁寧に患者と向き合っていた32歳の時、パキスタンに登山隊の医師としてやってきた。道中、立ち寄った集落で住民に囲まれた。しかし薬が足りず、十分な治療もできずその場を後にするしかなかった。日本に帰っても置いてきた患者のことが頭から離れなかった。そんな中、医師仲間から、パキスタンで医療活動をする医師を募集しているという知らせが入った。中村は即座に応募し、妻と幼い子ども2人を連れてパキスタン・ペシャワールに渡った。後輩の村上優らは仲間たちと中村を支援するペシャワール会を結成しカンパで資金を集めた。パキスタンで診療を始めた中村はなぜか隣国・アフガニスタン人の患者が多いことに気づいた。聞くと旧ソビエトが攻めてきたあとの混乱で逃げてきたという。中村はアフガニスタンにも診療所を広げようと考え現地の人に強い覚悟を伝えた。ある日、中村のもとに1人の女声が訪ねてきた。それがマザーテレサに憧れ看護師になった藤田千代子だった。ある日、藤田は現地のスタッフが仕事をゆっくり行うのを見かねて手伝っていた。その時、中村が「外国人のあなたが主役じゃない。現地の人が技術を身に着けなければ続かない」と怒り始めた。ある日、中村の診療所が銃撃された。応戦しようと銃を構えたスタッフに中村は「やられてもやり返すな。報復してもなにも生まれない。ただ混乱が生まれるだけだ」と制した。16年後、アフガニスタンを100年に1度とも言われる大干ばつが襲った。田畑は枯れ、さらにアメリカ同時多発テロが発生した。テロを起こした組織を匿ったことを理由に米軍がアフガニスタンに侵攻してきた。治安は悪化し食料支援していた国連の職員も一時退避してしまった。すぐに帰国せよと日本政府からの勧告も出たが、中村は帰国しなかった。中村は「今命を救うのは100の用水路より、1本の用水路だ」と言い出し「緑の大地計画」を提案した。クナール川の上流から水を引き砂漠地帯に13kmの用水路を建設。そこに用地を切り開く計画だった。総工費は数億円を超える。費用は中村とペシャワール会が寄付を募って集める。地元の人たちは両手を挙げて歓喜したという。アフガニスタンの未来をかけた戦いが始まろうとしていた。
