ノルウェーのオスロで授賞式が行われたノーベル平和賞について。授賞式のあとに行われた平和を願うパレード。今回オスロへは特別な使命を持った4人の高校生が派遣された。若者の立場から核兵器の廃絶を世界に訴える高校生平和大使。その1人、広島県の高校2年生の甲斐なつきさん。ノーベル平和賞の受賞が決まった瞬間、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の箕牧智之代表委員と喜びをともにした。高校生平和大使は核兵器廃絶を求める署名活動を行ったり国連で核兵器のない平和な世界の実現を訴えるスピーチを行うなどの平和活動に取り組む高校生のこと。1998年から毎年公募で選ばれ任期は1年。これまでに429人が大使となり今年は長崎や広島をはじめとして全国に23人いる。甲斐さんは広島生まれでひいおじいさんとひいおばあさんがそれぞれ広島と長崎で被爆している。身内に被爆者がいるということで高校に入ってすぐに地元で署名活動に参加していたのだが、さらに活動の幅を広げたいと応募して、選ばれた。甲斐さんは小学生のころから学校では平和教育を受けてきたが白黒で見る画像などを見ても現実に起きていたこととはなかなか思えなかったり被爆者の方の話を聞いてもどう受け止めればいいのか戸惑うところもあったということだった。甲斐さんが活動へと突き動かされたのは中学生の時。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まりリアルタイムでカラーで見る映像に衝撃を受けて広島、長崎と同じことがまた起こってしまうかもしれないと焦りを感じたそう。
甲斐さんは曽祖父の原爆投下について振り返る手記を見つけたといい、「爆心地に近づくにつれ、黒焦げの死体が多くなった。これが人間が造った核兵器によるもので許すことはできない。」などの文言がここには綴られていた。恐ろしさを伝えるために平和を呼びかける際にはこの手記は欠かさずに持っているという。また、曾祖母の手記には「元気な父が見るも無惨に、全身斑点が出て頭髪は抜け、吐く物も下すものも皆、血ばかり、明日をも知れぬ変わり様で苦しんでいました。」とあったという。甲斐さんは原爆が急に自分の眼の前にあるような感じがして責任を感じたと振り返った。オスロにも2つの手記は持っていったという。一方で甲斐さんは核兵器廃絶なんてできるわけないなどと言われてしまうことはあるのだといい、それでも日本被団協・田中熙巳さんの話に海外の参加者が涙する様子を見ると改めて考えなければならないと踏みとどまっている。甲斐さんは高校生平和大使の活動を終えた後も核廃絶に向けた活動を続けていきたいと平和への意欲を見せている。
甲斐さんは曽祖父の原爆投下について振り返る手記を見つけたといい、「爆心地に近づくにつれ、黒焦げの死体が多くなった。これが人間が造った核兵器によるもので許すことはできない。」などの文言がここには綴られていた。恐ろしさを伝えるために平和を呼びかける際にはこの手記は欠かさずに持っているという。また、曾祖母の手記には「元気な父が見るも無惨に、全身斑点が出て頭髪は抜け、吐く物も下すものも皆、血ばかり、明日をも知れぬ変わり様で苦しんでいました。」とあったという。甲斐さんは原爆が急に自分の眼の前にあるような感じがして責任を感じたと振り返った。オスロにも2つの手記は持っていったという。一方で甲斐さんは核兵器廃絶なんてできるわけないなどと言われてしまうことはあるのだといい、それでも日本被団協・田中熙巳さんの話に海外の参加者が涙する様子を見ると改めて考えなければならないと踏みとどまっている。甲斐さんは高校生平和大使の活動を終えた後も核廃絶に向けた活動を続けていきたいと平和への意欲を見せている。