バッテリィズが調査にいった。昭和30年代は手描きの看板があった。手描きの看板を掲げるのは新世界国際劇場だけになったという。映画看板絵師に会うため西成に移動した。八条祥治さんは父親が立ち上げた八條工房に24歳の時に飛び込んで以来、映画看板を描き続けている。八条さんが手掛けた看板は1万枚以上になる。映画看板絵師の仕事は自分の作品を消すことから始まる。映画の公開が終われば看板の役割も終わる。八条さんは番組の看板を描くことを約束した。
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