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「天皇皇后両陛下」 のテレビ露出情報

戸田さんと国民的ヒーローアンパンマンとの出会いは意外な形でオーディションは受けておらず事務所から決まったと言われた、宣材テープをやなせ先生とスタッフで聞いて戸田さんに決めたと聞いたということ。1回目の収録にだけきたやなせ先生から戸田さんは「世界一カッコ悪いヒーローだと思ってください。いつでもかっこいいわけじゃなく顔をちぎって食べてもらうと自分は弱ってへなへなになってしまう弱いカッコ悪いヒーロー」と言われたと話した。
1941年に太平洋戦争が勃発、元々漫画家を目指していたやなせたかしは25歳で中国の戦地へ、戦場で何日も食べられない飢えを経験した。2歳年下の弟千尋さんは京都大学卒業後に海軍に入隊し戦死した。正義を主張し合う中絶対に変わらない正義とはと出した答えがアンパンマンだった。やなせ先生は「スゴくひもじい時に1個のあんぱんをくれるのが正義。正義のために戦って傷つかないのはおかしいと思っていたが倒れている人やひもじい人がいれば助ける、あんぱんの顔をした人が飛んでいって自分の顔を食べさせると本人はダウンするが1人は助かる」と話した。想いはアニメ化のスタッフにもあった。初公開となるやなせ先生が送ったアニメ化への要望書では「アンパンマンの創り出す世界が人種や政治的な差別や陰湿ないじめとは無縁な世界」とあった。永丘監督は「戦争がありいじめや差別があるが一切アンパンマンの世界ではやりたくないと、大正解だとおもう古くなってない」と話した。戸田さんはアンパンマンの世界にはお金の話がでてこず利益のためになにかをするではなく気持ちがあるから何かをする世界観と語った。その思いを守り今も子どもたちに愛される国民的アニメとなっている。
大ヒットの裏にいたのは朝ドラで今田美桜さんが演じた奥さんの暢さんだった。やなせ先生は暢さんを「頼りがいのある贅沢しない、質素で仕事にも干渉せず倒れた時には助ける。僕の仕事にとって理想的な人だったのでカミさんがいなかったら描けなかった」と話した。二人三脚でアンパンマンを生んだ暢さんについて長年に渡って2人を取材し朝ドラ制作時に暢さんの情報提供をした高知新聞社村瀬佐保さんは「高知新聞社戦後初の女性記者で伝説の婦人記者。テープレコーダーがない時代に求められた速記ができた。当時交通機関がほとんどない時代にジープを乗り回し戦時中の焼け野原を取材した。終戦翌年に女性の選挙権が認められた時代にバリキャリで高知新聞社で働き出して3か月、やなせたかしさんと出会った。月刊高知の暢さんの記事に挿絵をかいたのがやなせさんだった。この時期取材相手の似顔絵なども手がけ締め切りを飛ばした作家さんがいれば「名和梨夫」として作家業もこなした。やなせさんはマルチクリエイターでとにかく仕事が早く、一晩や翌日には出来上がっていて作曲家近藤さんとやなせさんが作ったのは「サンサンたいそう」不器用なやなせさんの愛情表現は表紙に何度も描くだったということ。暢さんは1年で退職、優秀さから議員秘書として引き抜かれ朝ドラでは議員を戸田さんが演じた。状況はチャンスだと思っていたといい「先に東京に行って待ってるわね」と言い、半年後にやなせさんは上京、2年後に結婚した。上京後には生活のために日本橋三越 本店宣伝部に入社、手がけたのが包装紙のレタリングだった。漫画を描きたい思いを一番応援していた暢さんは仕事を辞めることを了承、34歳で漫画家として独立したが長編漫画が主流の時代に4コマ中心でヒットに恵まれなかったがイラストや文才・人柄が良かったためミュージカル舞台美術なども漫画と関係ない仕事が舞い込んだ。42歳で子ども番組の曲の作詞で作ったのが「手のひらを太陽に」でNHKみんなのうたで大ヒット、自分を元気づけるために作った。どんな仕事でも専念できるよう生活から経理まで行っていた暢さん、54歳の時4年前の絵本「やさしいライオン」に次ぐ幼児向けの絵本の依頼があり、自問自答の中つくったのがアンパンマンだった。当初大人からの評判は芳しくなかったが暢さんは読み聞かせをしたりする努力が実を結び、口コミがひろがって新作が誕生しシリーズ50作以上、1988年10月3日「それいけ!アンパンマン」が開始、OPテーマも詩もやなせさんが手がけた。アンパンマンは広まってこれまで1712話と映画36本、アンパンマンミュージアムも盛況の国民的アニメとなった。もうひとつ描きたかったのが誰も疑うことをしないことだった。初回放送から2カ月あまりで妻に乳がんが見つかり余命3か月を宣告された。やなせの筆を止めたくない気持ちで気力と体力をもち、きっかけに2人の時間を胸刻むように生きた。宣告から3年経った当時の天皇皇后両陛下の園遊会に出席したことについて「あまり好まないが夫婦の記念になる思い出になると出席した」とした。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年9月8日放送 21:54 - 23:10 テレビ朝日
報道ステーション(ニュース)
皇室では40年ぶりとなる男性皇族の成年式だった。悠仁さまの父、秋篠宮さま以来。天皇陛下から贈られた成年用の冠をかぶる加冠の儀には愛子さまも出席された。愛子さまも皇室を担う成年皇族として充実した日々を送られている。初めてだった新潟でのご公務も今日で3日目。愛子さまは新潟訪問を終えられ今夜皇居に。悠仁さまも赤坂御用地に戻られた。

2025年9月8日放送 8:14 - 9:50 フジテレビ
サン!シャイン(ニュース)
悠仁さまの成年式の紹介。親王旗がつけられた御料車(センチュリーロイヤル)で移動。天皇陛下専用車両を使用した。陛下のお祝いの気持ちである。悠仁さまは納得がいくまで質問、職員のリハーサルを見学、父・秋篠宮様にも相談されたという。加冠の儀で成年皇族になり、つづいて賢所皇霊殿神殿に閲するの儀、朝見の儀。儀装馬車4号は秋篠宮さまも40年前に使用した。宮内庁の車馬課が修[…続きを読む]

2025年9月7日放送 6:15 - 6:30 日本テレビ
NNNニュース・サンデー(ニュース)
秋篠宮家の悠仁さまは40年ぶりとなる「成年式」に臨まれた。悠仁さまは6日夜、成年式のお祝いの私的な夕食会に臨むため、秋篠宮ご夫妻らと帝国ホテルに到着された。6日朝、秋篠宮邸で天皇陛下から送られた成年用の冠を受け取る、冠を賜うの儀に臨まれた悠仁さま。午前10時から皇居・宮殿 春秋の間で行われた加冠の儀では未成年の装束を着用。空頂黒さくが外され、冠をつけるなどし[…続きを読む]

2025年9月7日放送 6:00 - 6:15 フジテレビ
FNNニュース(ニュース)
秋篠宮家の長男・悠仁さまはきのう19歳の誕生日を迎え成年式に臨まれた。成年の装束に改めた悠仁さまは賢所などを参拝された。午後には宮殿・松の間で「朝見の儀」に臨み、成年の決意を示された。皇居前広場には多くの人が集まり、悠仁さまは笑顔で手を振られた。悠仁さまは「安堵しております」と述べられた。夜には都内のホテルで両陛下や上皇ご夫妻、皇族方などを招き、お祝いの夕食[…続きを読む]

2025年9月7日放送 6:00 - 6:10 NHK総合
ニュース(ニュース)
秋篠宮ご夫妻の長男の悠仁さまは、きのう皇室で40年ぶりとなる男性皇族の成年式に臨まれた。皇居宮殿で中心的な儀式の「加冠の儀」に臨まれ、天皇皇后両陛下や秋篠宮ご夫妻が見守られる中、側近が悠仁さまに冠を被せた。続いて悠仁さまは両陛下や秋篠宮ご夫妻に、御礼や決意の言葉を述べられた。成年式の4つの儀式はきのうで終わり、夜には都内のホテルを会場に秋篠宮ご夫妻主催で私的[…続きを読む]

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