拓銀はバブル期に繰り返した高級リゾートなどへの巨額融資が焦げ付き、経営難が報道されるようになる。更に、半年が過ぎたころ、大蔵省の検査により、不良債権が9000億円を超えることが発覚した。ライバル北海道銀行との合併をしかけるも、すぐに不協和音が。元大蔵省・銀行局銀行課長・内藤純一氏は当時、大蔵省で銀行を管理監督する立場にあった。合併発表直後、北海道銀行サイドから拓銀の不良債権について相談を受けたと明かした。結局、破綻に。合併の発表から半年後だった。株価は、河谷さんの頭取就任から下がり続け、合併延期の発表後、100円を割り込むまでに。預金の流出が止まらず、打つ手がなくなる。最後の頼みの綱は大蔵省だった。結局、道内の事業は北洋銀行に、本州部分は当時の中央信託銀行に譲渡されることに。大手銀行は潰さないという方針はなぜ守られなかったのか。内藤氏は、公的資金注入という選択肢がなかったことが一因だったというこれを皮切りに破たんの連鎖が加速。