30年前、愛知のテーマパークで撮った記念写真。真ん中には車椅子にのったフィリピン人女性、シラニ―・べトニオさんや瀕死の重傷を負った男の子やその父、記者になる前の松岡康子が映っていた。松岡とべトニオさんらが出会ったのは中華航空機事故がきっかけだった。1994年4月26日、台北発、名古屋空港行きの中華航空機が着陸に失敗し墜落。犠牲者は264人、生存者は7人。冬至大学生だった松岡は生存者を支援するボランティアとして病院にかけつけた。事故の記憶を社会から消さないために何ができるのか。30年越しに対話した。
平成最悪の大惨事となった中華航空機事故。当時、最新鋭だった期待の操縦をパイロットが誤ったことなどが原因だった。旅行帰りの日本人や、日本への出稼ぎ国際結婚の外国人など271人が乗っていた。そのうち264人が亡くなった。重症を負って搬送されたのが当時3歳の長谷部弘義さんだった。弘義さんは一命を取り留めた。父の敦士さんは当日、フィリピン人の妻と息子の帰りを空港で待っていた。妻のテレサさんと弘義さんは当時フィリピンで暮らしていた。事故が起きたのは3人で日本で暮らし始めるはずの日だった。ボランティアで駆けつけた松岡は病院で長谷部さん親子に出会い退院後にも家族ぐるみの付き合いを続けていた。辛い記憶を思い出させたくなかったので松岡は、事故には触れないでいた。
事故から30年、松岡は岐阜・関市に住んでいる弘義さんのもとを訪ね、初めて事故のことを聞くことにした。敦士さんは「きのうのことのように感じる。妻はヒロを命懸けで守った。あとは俺しかない。だから振り返らない」などと話した。弘義さんは事故や母親のことをどう受け止めているのか聞いてみた。弘義さんは「なんで自分がこんな目に遭ったんだろうって考えることはある」などと話した。親になったことで母親のことを知りたいという思いが強くなっていた。2022年、家族うで慰霊式に参加したことを機にメディアの取材を受けるようになった。弘義さんは「自分だけがピックアップされがちだけど、遺族やンバくなった方々がいるんだよというのを、ちょっと思ってほしい」などと話した。
中華航空機事故の遺族や生存者たちはこの事故特有の困難に直面していた。海外の企業を相手にした裁判は10年以上に続いた。その後、待ち受けていたのは急速な関心の低下だった。家族会の中で強い危機感を抱いていたのが羽深渡さんだった。遺族の羽深千恵子さんは「そういうことが会ったねじゃなく、あるかもしれないから、ちゃんと肝に命じておこうね。そういう意味での風化をさせてはいけないということ」などと話した。
中華航空機事故、搭乗していた人の内、約4割は海外の在住者だった。ボランティアで駆けつけた松岡が出会ったもう1人が当時22歳、シラニ―・べトニオさんだった。べトニオさんは家族を養うためにダンサーとして日本に出稼ぎに来ていた。べトニオさんは脊髄を損傷し下半身付随になった。3月下旬、松岡と弘義さんはフィリピンまでべトニオさんに会いに行った。事故についてべトニオさんは「私は生活が苦しかったしこのような体になってしまった。働くことも自立して生きることもできなくなった、結婚して子どもは産めるのか、将来が見えなくなった。家族は一番大変なのはあなたなんだから心配はするなと言ってくれた」などと話した。事故から3年後、べトニオさんは小さな商店をはじめた。そこで夫と出会い結婚。3人の子どもに恵まれた。べトニオさんと弘義さんが再会。弘義さんは「あなたに会うまでは誰とも共有できなかった。だから会えて嬉しいです」とべトニオさんに伝えた。その後、弘義さんは母と蔵下生家を訪ね、祖母と再会した。日本に帰り、弘義さん、遺族会をまとめた羽深渡さんの妻・千恵子さんと初めて会って話をした。
平成最悪の大惨事となった中華航空機事故。当時、最新鋭だった期待の操縦をパイロットが誤ったことなどが原因だった。旅行帰りの日本人や、日本への出稼ぎ国際結婚の外国人など271人が乗っていた。そのうち264人が亡くなった。重症を負って搬送されたのが当時3歳の長谷部弘義さんだった。弘義さんは一命を取り留めた。父の敦士さんは当日、フィリピン人の妻と息子の帰りを空港で待っていた。妻のテレサさんと弘義さんは当時フィリピンで暮らしていた。事故が起きたのは3人で日本で暮らし始めるはずの日だった。ボランティアで駆けつけた松岡は病院で長谷部さん親子に出会い退院後にも家族ぐるみの付き合いを続けていた。辛い記憶を思い出させたくなかったので松岡は、事故には触れないでいた。
事故から30年、松岡は岐阜・関市に住んでいる弘義さんのもとを訪ね、初めて事故のことを聞くことにした。敦士さんは「きのうのことのように感じる。妻はヒロを命懸けで守った。あとは俺しかない。だから振り返らない」などと話した。弘義さんは事故や母親のことをどう受け止めているのか聞いてみた。弘義さんは「なんで自分がこんな目に遭ったんだろうって考えることはある」などと話した。親になったことで母親のことを知りたいという思いが強くなっていた。2022年、家族うで慰霊式に参加したことを機にメディアの取材を受けるようになった。弘義さんは「自分だけがピックアップされがちだけど、遺族やンバくなった方々がいるんだよというのを、ちょっと思ってほしい」などと話した。
中華航空機事故の遺族や生存者たちはこの事故特有の困難に直面していた。海外の企業を相手にした裁判は10年以上に続いた。その後、待ち受けていたのは急速な関心の低下だった。家族会の中で強い危機感を抱いていたのが羽深渡さんだった。遺族の羽深千恵子さんは「そういうことが会ったねじゃなく、あるかもしれないから、ちゃんと肝に命じておこうね。そういう意味での風化をさせてはいけないということ」などと話した。
中華航空機事故、搭乗していた人の内、約4割は海外の在住者だった。ボランティアで駆けつけた松岡が出会ったもう1人が当時22歳、シラニ―・べトニオさんだった。べトニオさんは家族を養うためにダンサーとして日本に出稼ぎに来ていた。べトニオさんは脊髄を損傷し下半身付随になった。3月下旬、松岡と弘義さんはフィリピンまでべトニオさんに会いに行った。事故についてべトニオさんは「私は生活が苦しかったしこのような体になってしまった。働くことも自立して生きることもできなくなった、結婚して子どもは産めるのか、将来が見えなくなった。家族は一番大変なのはあなたなんだから心配はするなと言ってくれた」などと話した。事故から3年後、べトニオさんは小さな商店をはじめた。そこで夫と出会い結婚。3人の子どもに恵まれた。べトニオさんと弘義さんが再会。弘義さんは「あなたに会うまでは誰とも共有できなかった。だから会えて嬉しいです」とべトニオさんに伝えた。その後、弘義さんは母と蔵下生家を訪ね、祖母と再会した。日本に帰り、弘義さん、遺族会をまとめた羽深渡さんの妻・千恵子さんと初めて会って話をした。
住所: 愛知県西春日井郡豊山町大字豊場