- 出演者
- 中居正広 笑福亭鶴瓶 藤本美貴 EXILE TAKAHIRO(EXILE) 八木莉可子 吉住
2024年1月1日、能登半島で巨大地震が発生。そして、翌日に羽田空港でJAL機が海保機と衝突する事故があった。この事故で海保機の乗員5人が死亡。能登半島地震の被災者へ救援物資を輸送するために飛び立つ航空機だった。一方、衝突したJAL516便はエンジンから出火し乗客はパニックになったが、乗務員たちが的確に指示を出して18分間で全員が無事に脱出。それは厳しい訓練の賜物だったという。JALが受け継いできた空の安全は39年前の事故の教訓でもあると日本航空社長の鳥取三津子さんは語る。このJAL123便墜落事故で何があったのか、事故発生から墜落までを再現する。
1985年8月12日、夕方5時ごろ。JAL123便にはビジネスマンや家族連れも多く乗客はほぼ満席の509人。コックピットの運航乗務員は3人。機長席に着いたのはこの日昇格訓練を兼ねての乗務だった副操縦士。副操縦士席に座ったのは操縦指導員の機長。後ろには航空機関士がいて、操縦は副操縦士が担うことになっていた。午後6時12分に離陸。離陸後12分には機体は高度2万4000フィートに近づいていた。その時、機体が激しく揺れた。
今回のゲストを紹介した。
八木莉可子は番組初登場で鶴瓶とも初対面。TAKAHIROは飛行機に乗るときのルーティーンについて、CAさんと話すときに目をそらさずに話を聞くことを勝手に勝負していると話した。
JAL123便は離陸12分後に衝撃音が鳴った。コックピットでは緊急事態を管制部に伝える信号を発信。すぐに救難調整本部(RCC)に連絡された。 コックピットでは衝撃音の原因を探るが車輪に異常はなく原因はわからない。機体は相模湾から伊豆半島に差し掛かった地点から羽田に戻るため右旋回を行うが、操作以上に大きく機体は傾いた。副操縦士は操縦桿を逆に切ったが機体は戻らない。この時、機体は垂直尾翼の約6割が吹き飛んでいた。さらに、油圧配管が吹き飛び油が漏れ出ていて、思った通りのコントロールができなかった。それでもわずかに残った油で傾きは戻った。123便の油圧は4系統あり、1つが壊れてもほかで補い不時着できるように設計され、パイロットもそう訓練していた。コックピットは緊急降下を宣言するが、4系統の油圧はすべて使えなくなっていた。客室では落ち着きを取り戻しつつあったが、ダッチロールと呼ばれる激しい横揺れが起きた。123便は垂直尾翼の大部分が吹き飛び、油圧を失ったためダッチロールを制御する術がなかった。また、機首の操作もできず上昇と降下を繰り返すフゴイド運動を抑えることもできない。
飛行機でのトラブルや驚いたことについてスタジオでトーク。藤本美貴は機長さんがバスガイドなみに着く寸前までしゃべっていて、到着時には拍手喝采だったことがあると話した。吉住は機内コンテンツに自身の単独ライブの映像があり、隣の席の人が見ていて気になったと話した。
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- モーニング娘。
ダッチロールの横揺れとフゴイドの上昇降下で123便は不安定な動きを繰り返していた。コックピットではコントロールできていないことはわかっているが操縦桿を握るしか術がない。客席では揺れの中で家族宛にメッセージを残す乗客もいた。衝撃音から7分の午後6時31分、機体は駿河湾を越えたところから旋回して北へ向かっていたが、おそらくパイロットがコントロールしたわけではない。ダッチロールは激しさを増し、傾きは最大40度に。機体はフゴイド運動によって高度約7000m付近から降下できずにいた。そこは酸素が薄く、客室の酸素マスクの酸素量にも限界が来ていた。コックピットの乗務員は酸素マスクをつけていなかったと考えられていて、低酸素症の症状で判断力や操作能力が低下していたと推定されている。理由は明確にはわからないが、原因追及と姿勢安定のため操作に専念していたからではないかと考えられた。コックピットでは高度を下げるために車輪を下ろした。すると、フゴイドとダッチロールは収まったが降下に神経を使い、管制官からの呼びかけに応じる余裕はなくなっていた。その頃、米軍・横田基地は緊急着陸の受け入れ態勢を整えていた。まっすぐ行けば横田基地だったが機体は左に旋回し遠ざかっていく。コントロールする術はなく、123便は降下しながら機首を御巣鷹方面へと向けた。そこは2000m級の山々がそびえる山岳地帯だった。
機体をコントロールする術はなく、123便は降下しながら機首を御巣鷹方面へと向けた。そこは2000m級の山々がそびえる山岳地帯だった。山が迫る中、離脱するためにエンジンを全開に。一気に約2100mまで上昇したが、不安定になりまたしてもフゴイドとダッチロールが発生。姿勢の安定性が失われ失速し急降下。時速約500キロで降下したがギリギリで機首を上げ上昇に転じた。山岳地帯でのフゴイド運動だが、クルーたちはエンジンの出力だけで機首を操作する対処法を掴みつつあった。なんとか山岳地帯を越えようと、フラップを出して高度を保つことを考えた。バランスを崩せば墜落するが、フラップを出した。
仰天ニュースについてスタジオでトーク。八木莉可子は海外に行くときにキャリーとかばんをマンションのオートロックの中に置いたまま出てしまい、誰か出てくるのを30分待ったことがあると話した。TAKAHIROはホテルでタオル1枚で室外に出てオートロックのドアが閉まってしまったことがあるという。
管制所と連絡すると、地上でも不時着の態勢が整えられていた。山を越えれば希望が見えるが、左のフラップだけが先に下りてしまい機体は一気に右に傾き失速。時速630キロ以上で急降下、エンジン全開で機首を上げるとギリギリで上昇した。しかし、123便はレーダーから消えた。午後7時15分、たまたま近くを飛んでいた米軍輸送機が山肌の炎を通報。6分後に航空自衛隊戦闘機が炎を報告した。
午後10時すぎ、日本航空は墜落場所を公式発表。場所は長野県南佐久郡北相木村 御座山北斜面。それは後に誤報だったとわかる。北相木村役場には対策本部が設置され、長野県警は御座山に約200人を派遣し捜索。日本テレビ記者の粕谷賢之も北相木村に到着した。夜11時30分には陸上自衛隊約1000人が到着し捜索するが機体は発見できない。上空から炎は見られるが地上からは見つからない。GPSがない時代、ヘリや飛行機の位置特定には基地局にあるTACANという無線から電波を飛ばして割り出していたが、その位置情報には誤差があり、険しい山に阻まれて地上から炎は確認できず、ほぼ新月の真っ暗闇で上空からもどの山なのかわからなかった。
翌朝5時ごろ、日の出とともにようやく正確な位置が上空から伝えられた。そこは群馬県の地元の人でもほぼ立ち入らない山だった。朝6時すぎ、自衛隊を先頭に道なき山を登り、歩き続けること4時間。現場に到着すると、山が削り取られた衝撃の光景が広がっていた。生存者は4人だった。生存者を発見した宮澤年彦さんは消防団で沢から登り、墜落現場の尾根ではなく沢で発見したという。123便は手前の稜線にエンジンをぶつけたことで逆さになり、機体全部は尾根に直撃したが後部は山肌を滑り落ちていて、機体後方の衝撃は前方よりかなり少なかったと推測された。沢で生存者を発見したもののヘリが降りられず簡易タンカで尾根まで担いで登った。
なぜ123便は尾翼と油圧を失ったのか。事故原因の正式発表がなかなかされない中、様々な憶測が飛び交った。そして、事故から2年後に事故調査報告書がようやく発表された。原因と推定されたのは後部圧力隔壁に空中で穴が開いたこと。機内の圧縮された空気が一気に吹き出たことで垂直尾翼を破壊したと考えられた。さらに、油圧ポンプ4系統すべてを吹き飛ばしたと思われた。圧力隔壁が壊れたきっかけは事故の7年前、1978年に遡る。伊丹空港で後の123便は着陸時にしりもち事故を起こした。この事故で後部圧力隔壁の下半分が壊れ、米・ボーイング社の約40人が修理を担当。しかし、指示書通りの修理が行われておらず強度不足になっていた。遺族たちは事故から8ヶ月後に日本航空・ボーイング社・運輸省幹部らを業務上過失致死傷で刑事告訴。その後書類送検されたが、県岐阜で不起訴となった。日本航空とボーイング社はともに遺族に賠償金を支払った。
2024年1月、アメリカで撮影された飛行中の機内映像にはドアがない様子が映されている。乗客7人と客室乗務員1人が軽症を負ったが全員無事だった。原因はまだ発表されていないが、自己調査の暫定報告書によると、事故機にはドアを機体に固定するボルト4本が取り付けられていなかった証拠が見つかったという。このボーイング737MAXは2018年にインドネシア、2019年にエチオピアで連続墜落事故を起こしていた。事故原因はともに制御システムが誤作動を起こしたことと考えられた。ボーイング社は制御システムを改修し2022年に運航再開されていた。ボーイング社は安全対策を強化するため約730億円を投資すると発表した。
御巣鷹の尾根と名付けられた墜落場所は山梨・甲府市と群馬・前橋市を結んだ直線の真ん中あたりにある山深い場所で群馬・上野村にある。御巣鷹の尾根は人里から車で約50分の場所にある。車を降りて沢沿いを10分歩くと4人の生存者が発見されたスゲノ沢に出る。そして30分登ると慰霊碑が立てられた墜落現場。そこからは今でもU字にえぐられた山が見える。
「ザ!世界仰天ニュース」の次回予告。
EXILE TAKAHIROが配信限定シングル「DESTINY」を告知した。
八木莉可子がドラマ「潜入兄妹 特殊詐欺特命捜査官」を告知した。