明暦の大火の翌年には江戸に定火消が誕生した。定火消の詰め所では男たちが丸太に横になって寝ており、火事が起きると丸太を叩いて起こしていた。これが叩き起こすの語源となった。定火消は町人たちが暮らす町はカバーできなかったため、大岡忠相が新たな消防制度を打ち出した。それが隅田川の西側を48,東側を16の地域に分けて消防組織を置き江戸全体を守る町火消だった。普段は町で働く鳶や大工で、ひとたび火事となればほぼ無給で自分たちの町を守るため火消となった。火事が起こると町火消たちは真っ先にまといを屋根にかけ、消火の目印とした。ヒラヒラした部分は馬簾と呼ばれ、火消の身を守る役割があった。火消の子孫である高柳さんは、燃え盛った火の恐怖はすごい、火の中に飛び込んでいく勇気は町衆からしたら格好よかったと話した。当時は建物を壊すことで延焼を防ぐ破壊消火が行われていた。町火消は火事場で重さ10キロの刺し子半纏を着ていた。龍吐水は西洋の技術を元に作られたポンプで、炎から火消を守るために放水した。火消たちは約半世紀で1万人体制に強化された。金沢市の消防団では、加賀鳶と呼ばれた火消のはしご上りの技が受け継がれている。
