興さんは長年大島紬の生産に携わり後進の指導にあたっている。大島紬は奄美の主要産業で戦時中は組合が軍用機を献上したこともある。しかし、戦況が悪化すると大島紬の状況も一変し町の中心部の9割が消失し大島紬の関連施設も被害を受けた。また、ぜいたく品の製造禁止により終戦の年は生産が0。終戦後も厳しい状況は続き米軍統治下により糸のやり取りが途絶えた。米軍統治下では生産量が戦前の10分の1。息を吹き返すきっかけとなったのは奄美の日本復帰で、本土との経済交流が復活したことで糸の流通・販路が拡大し1980年には280億円余とピークに達した。