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「帝国陸海軍」 のテレビ露出情報

19世紀以降、何度も国境線が引き直されてきた樺太・千島列島。内地からの移住者が開発を進め、1940年には人口40万人に。当時は新聞以外に情報を知る手段がなかったが、日本放送協会がラジオを設立。当時の政府はラジオを利用して国論統一を図る動きを進めていたこともあり、設立は急ピッチで進められた。
かつて樺太に設置された日本放送協会のラジオ局「豊原放送局」。開局目前の12月8日、太平洋戦争が開戦。豊原でもこのニュースを報道。その18日後、正式に開局。式典も開かれた。放送局は駅から2km離れた公園の一角に作られ、演奏室や応接室など完備。局員は計25名。ニュースのほか、音楽、落語、ドラマなどの娯楽番組も放送し島民に親しまれた。このころ、樺太に戦争の足音はまだ迫っていなかった。
かつて樺太に設置された日本放送協会のラジオ局「豊原放送局」。戦況が悪化してくると大本営発表の放送が増えるように。政府内では天皇制の廃止を防ぐべくソビエトを介した和平工作が議論されるようになり、ソビエトに南樺太を譲渡する方針も決定された。44年の豊原への新入局員ではほとんどが女性。
かつて樺太に設置された日本放送協会のラジオ局「豊原放送局」。1945年2月、日本が和平工作の仲介役として期待していたソ連が対日参戦。日本の和平工作は失敗に終わった。8月8日、ソ連が日本との中立条約を破棄し宣戦布告。豊原放送局があった樺太も戦場となり、職員たちは警報放送を行った。8月15日、日本の敗戦を伝える玉音放送。終戦後、樺太では子供や女性中心に緊急疎開が開始。その最中にソ連軍から攻撃され死亡する事例も相次いだ。
かつて樺太に設置された日本放送協会のラジオ局「豊原放送局」。終戦後、日本軍は樺太死守のため戦いを続行。住民を含めた犠牲者は5000人ともいわれている。45年8月23日、ソビエトの戦車隊が豊原へ進駐。放送局にもソ連兵が押し寄せ、職員らは囚われの身に。最後の放送はソ連からの命令によるもので、ラジオを駅前に持参するよう住民らに命じるものだった。当時の局長・松山清は占領の実態を文書に残している。
終戦当時、約30万の日本人が残されていた南樺太。占領後、南樺太にソ連からの移民が急増。住居が足りないため、日本人と同居するようになる。当時の日本政府の方針は現地定着方針。内地から来た日本人はそのまま現地に残るよう命じるものだった。日本兵らはシベリアに抑留され、住民の多くもソ連からの命令で重労働を強いられた。
終戦後の占領から1年が経過したころ、米ソ間で日本人捕虜の引き上げに関する協定が締結。樺太にあった豊原放送局の松山局長は権力者とみなされ、引き揚げを許可されず。当時アナウンサーだった石坂幸子は帰国せずハバロフスクでの日本向け対敵放送に従事。ソ連としてはシベリア抑留の正当性を主張する狙いで、石坂は日本向け番組で捕虜からの手紙を読み上げていた。49年7月、米国統治下の日本に帰国。米諜報機関からはスパイとみなされ、執拗な尋問を受けた。日本では製紙会社に勤務し、82年に病死。
1951年、日本は南樺太のすべての権利を放棄。豊原放送局はソ連のラジオ局として使われたが、現在は放置されている。当時の職員たちが再び集まることはなかった。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年8月25日放送 0:55 - 1:25 日本テレビ
NNNドキュメント’25(NNNドキュメント’25)
元軍医の蒲原宏さん。1923年、新潟市内の寺の長男として生まれる。18歳で太平洋戦争が始まると、「生きものを殺さない」という仏教の戒律を守るため医者を目指す。1945年2月、鹿児島の基地に軍医として配属される。このころの日本は劣勢。44年10月、搭乗員もろとも体当りする特攻作戦が始まった。当時蒲原さんが命じられたのは、特攻兵にヒロポン(覚醒剤)を投与すること[…続きを読む]

2025年8月14日放送 22:00 - 23:56 TBS
戦後80年特別番組 なぜ君は戦争に?(海に眠る飛行機の謎)
偵察機に登場していたという兵士の親族・梶原五昭さんは叔父の梶原龍三さんを紹介してくれた。鹿児島の離島であり漁業盛んな甑島の三男だったといい、父がケガをして働けなくなると食うや食わずの生活の中で家族の生活を少しでも楽にしようと海軍に志願したという。龍三さんは偵察機で6機の敵機を相手に抵抗を続け、搭乗員2人が死亡する中最後方から舵を取り不時着を成功させたという。[…続きを読む]

2025年8月14日放送 15:45 - 19:00 フジテレビ
イット!戦後80年 いま、平和ですか
愛媛県愛南町にある「紫電改展示館」。その中央に静かに佇むのが旧日本海軍で幻の戦闘機と言われた「紫電改」。太平洋戦争末期に最新鋭の戦闘機として生産され、当時は日本の航空技術の到達点とまで言われた。最大の特徴は自動空戦フラップと言われる装置。旧日本海軍の熟練したパイロットの多くが戦士したため、経験の浅いパイロットでも敵の攻撃をかわしやすくするため旋回する性能を高[…続きを読む]

2025年8月14日放送 11:30 - 11:50 フジテレビ
FNN Live News days戦後80年 いま、平和ですか
愛媛県・愛南町にある「紫電改展示館」。中央に静かに佇むのが「紫電改」だ。当時の“日本の航空技術の到達点”と言われた最新鋭の戦闘機だった。最大の特徴は「自動空戦フラップ」と呼ばれる装置。旋回する性能を高め、敵の攻撃をかわしやすくした。戦争末期には熟練したパイロットが戦死し、戦闘経験の浅いパイロットが操縦する必要があったためだ。現存する紫電改は世界で4機。国内で[…続きを読む]

2025年8月13日放送 10:25 - 13:55 TBS
ひるおびJNN NEWS
99歳の神馬文男さんは15歳で海軍飛行予科練習生として入隊した。14~17際の少年が志願して入り訓練を行った予科練だが、1人の責任はみんなの責任ということを押し付けられたと当時を振り返った。連帯責任が徹底され、天皇に忠義を尽くすことであればそのために死んでも親はどんなに喜ぶでしょうといった考えがあったという。国のために命を捧げる思想を植え付けられ、1944年[…続きを読む]

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