12月8日で真珠湾攻撃から84年を迎える。戦意高揚のシンボルとして創られた「軍神」。大舛松市は沖縄で軍神と呼ばれガダルカナル島で戦死。当時、大政翼賛体制に組み込まれた新聞は言論が厳しく統制され、地方の複数ある新聞を統合する一県一紙政策が行われた。3紙あった沖縄の新聞は1940年12月に1紙に統合された。沖縄新報が力を入れたのが軍神報道。著しい功績を残し戦死したと判断した兵士や部隊に対して、司令官は感状を作り天皇などへ報告を上げる。
与那国島で生を受けた大舛松市。沖縄県立第一中学校を首席で卒業し陸軍士官学校に現役合格。市ヶ谷記念館には校舎の一部が残っている。大舛が入校式に臨んだ大講堂は戦後、東京裁判が行われた場所でもある。1940年3月、与那国に戻った大舛と出会った記憶を妹・山田恵子さんは振り返る。1943年に大舛は重傷を負いながら突撃したことが武勲とされ報じられた。
与那国島で生を受けた大舛松市。沖縄県立第一中学校を首席で卒業し陸軍士官学校に現役合格。市ヶ谷記念館には校舎の一部が残っている。大舛が入校式に臨んだ大講堂は戦後、東京裁判が行われた場所でもある。1940年3月、与那国に戻った大舛と出会った記憶を妹・山田恵子さんは振り返る。1943年に大舛は重傷を負いながら突撃したことが武勲とされ報じられた。
