太平洋戦争末期、不利な戦況を打開すべく開発された船がある。操縦席の後ろに積まれた筒はおよそ250kgの爆弾。マルレと呼ばれたこの船は命を犠牲に突っ込む特攻兵器だった。生き残った元隊員を櫻井さんが取材した。元特攻兵の佐野博厚さん(96)が見せてくれたのは特攻兵器マルレの写真である。ベニヤで出来たこの船は後方に250kgの爆弾が装備されており、これに乗ったものは100%生き残って帰ることは出来ないため、極秘とされた特攻部隊となっている。船は連絡艇の形をとり頭文字「レ」をとってマルレと呼ばれた。スーサイドボート、自殺艇と呼ばれたマルレの特攻部隊はフィリピンに上陸を始める米国軍の艦船を沈め戦果を挙げた船もあるといわれている。そのマルレに乗り込んだのはほとんどが15歳~19歳の若者たちだった。戦地に送られたのは3000人以上でそのおよそ6割が命を落としている。佐野さんは当時17歳で「当時の若いものは消耗品だった。国の教育によってどういうふうにもなる」などと話した。佐野さんは小学校6年の時に陸軍の1日体験入隊に参加。そして、1943年12月に兵力不足を補うため陸軍が始めたのが特幹と呼ばれる陸軍特別幹部候補生の募集である。15歳から19歳を対象に早く階級が上がる制度だった。マルレに選ばれたことについて佐野さんは「名誉なことだと思った。国のために奉公できる」などと話した。広島・江田島市幸ノ浦の海岸に戦時中マルレを訓練するための基地があった。佐野さんはこの時遺書を書いており「祖国日本を安泰にするために身を捧げる時が来た」などと書いたという。の海で昼夜特攻の訓練を続けた佐野さんは7月本土決戦に備え佐野さんの部隊は広島県から熊本・天草へ。出撃準備をする中で終戦を迎えた。一方で広島に残っていた部隊は原爆投下後、救援活動で被爆し、後遺症に苦しんだ。佐野さんは「終戦が長引いていたら突撃していた」などと話した。戦争の恐怖について佐野さんは「お互いに殺し合うことや一般の住民が空襲で犠牲になっている。一般の人も巻き込んだ戦争は無意味」などと話した。