- 出演者
- 藤井貴彦 櫻井翔 佐藤梨那 大町怜央 市村紗弥香
オープニング映像。
パリオリンピックに関するオープニングトーク。藤井アナが「今夜オリンピックで見事連覇を達成した堀米雄斗選手に来てもらった」などと話すと櫻井さんが「おめでとう」などと話し、堀米選手に花束を渡した。
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- パリオリンピックパリオリンピック 閉会式
中央道・相模湖東IC付近より中継。現在の高速道路の様子。上りのピークはきょうだったが明日以降も渋滞が予測されている。特に明日・あさっては東北道や関越道などの上りで30km以上の渋滞発生が予測されている。そして新幹線も上りのピークはきょうだったものの明日以降も同じ程度の混雑が予想されている。一方、空の便では17日土曜日が国内線の上りのピークとなっている。今後、移動する際は最新の交通情報に注意しながら余裕を持って出かけるように呼びかけた。
17日間の熱戦に幕を閉じたパリオリンピック。日本は金メダル数メダル総数ともに海外で行われたオリンピックでは史上最多となった。その躍進の舞台裏を探るべくTEAM JAPANの土肥美智子副団長に単独インタビュー。スポーツに興味がない人にも面白いと感じてもらえるよう今回、SNSを使った情報発信に力を入れた。オリンピックでは初めて現地にSNSチームを派遣し大会中の選手たちの意外な素顔を発信。体操2択チャレンジ動画は500万回再生を超え夏季、冬季を合わせて過去最高に。東京大会や冬の北京大会よりも多く見られたという。一方でSNSの負の側面も。思うような結果が残せなかった選手やミスをした選手へのネット上の心無い声も取り沙汰され、選手が謝罪や釈明のメッセージを発信せざるを得ない事態に。TEAMJAPANでは誹謗中傷から選手を守るためSNSの運営者に対して悪質な投稿の削除を依頼。度を超えたものがあれば警察に通報できる体制をとった。そして今回夏のオリンピックでは初めて心のケアなどを行うウェルフォアオフィサー4人を現地に派遣。対面やLINEで選手らの相談に乗ったという。そのウェルフォアオフィサーの1人、鈴木和馬さん。サポートは閉幕したあとも続けるという。
オリンピック連覇を果たした堀米雄斗がスタジオ生出演。今夜はオリンピック連覇の裏側を3つのテーマ「ラスト1本・7位から大逆転金メダル」「東京金メダルも…絶望的だったパリ出場」「前人未到の3連覇!4年後…ロス五輪へ」で生直撃。最後のトリックに挑む時どんな気持ちだったか?「点数のことは考えずに滑り、気持ち的にはすごいうれしい気持ちもあった」、「予選でオリンピック出場を決めた思い入れのあるトリックだったのでオリンピックでも出したいと思っていた」など話した。オリンピック選考レースでは7大会中3大会で決勝に進めず上位3人がオリンピック出場となる中、最終戦を前に堀米選手は5番手。それでも2位以上が条件の中、見事優勝。大逆転でパリへの切符をつかみ取っていた堀米選手は「上手く滑れているのに結果が出なかったりルールが得意なものでなくなるなど苦しい時間が続き、特に東京五輪後はトップゆえのプレッシャーもあった」、「追い越し追い越されを繰り返す辛い期間が自分を強くしてくれた」など話した。ロサンゼルスは見据えているか?「絶対に出場したいし、もし出れたら自分のベストを全部出し切って金メダルをとりたい」など話した。
太平洋戦争末期、不利な戦況を打開すべく開発された船がある。操縦席の後ろに積まれた筒はおよそ250kgの爆弾。マルレと呼ばれたこの船は命を犠牲に突っ込む特攻兵器だった。生き残った元隊員を櫻井さんが取材した。元特攻兵の佐野博厚さん(96)が見せてくれたのは特攻兵器マルレの写真である。ベニヤで出来たこの船は後方に250kgの爆弾が装備されており、これに乗ったものは100%生き残って帰ることは出来ないため、極秘とされた特攻部隊となっている。船は連絡艇の形をとり頭文字「レ」をとってマルレと呼ばれた。スーサイドボート、自殺艇と呼ばれたマルレの特攻部隊はフィリピンに上陸を始める米国軍の艦船を沈め戦果を挙げた船もあるといわれている。そのマルレに乗り込んだのはほとんどが15歳~19歳の若者たちだった。戦地に送られたのは3000人以上でそのおよそ6割が命を落としている。佐野さんは当時17歳で「当時の若いものは消耗品だった。国の教育によってどういうふうにもなる」などと話した。佐野さんは小学校6年の時に陸軍の1日体験入隊に参加。そして、1943年12月に兵力不足を補うため陸軍が始めたのが特幹と呼ばれる陸軍特別幹部候補生の募集である。15歳から19歳を対象に早く階級が上がる制度だった。マルレに選ばれたことについて佐野さんは「名誉なことだと思った。国のために奉公できる」などと話した。広島・江田島市幸ノ浦の海岸に戦時中マルレを訓練するための基地があった。佐野さんはこの時遺書を書いており「祖国日本を安泰にするために身を捧げる時が来た」などと書いたという。の海で昼夜特攻の訓練を続けた佐野さんは7月本土決戦に備え佐野さんの部隊は広島県から熊本・天草へ。出撃準備をする中で終戦を迎えた。一方で広島に残っていた部隊は原爆投下後、救援活動で被爆し、後遺症に苦しんだ。佐野さんは「終戦が長引いていたら突撃していた」などと話した。戦争の恐怖について佐野さんは「お互いに殺し合うことや一般の住民が空襲で犠牲になっている。一般の人も巻き込んだ戦争は無意味」などと話した。
全国の気象情報を伝えた。
関東の気象情報を伝えた。
1985年のきょう羽田発大阪行きの日本航空123便が墜落し乗客・乗員520人が犠牲となった。現場である御巣鷹の尾根のふもとで今日追悼慰霊式が行われ、事故発生時刻の午後6時56分黙祷が捧げられた。日本航空を巡っては安全運航に関わるトラブルも起きていて、慰霊登山に訪れた人からは空の安全についてしっかりしてほしいなどの声が聞かれた。日本航空は事故当時からいる人が全体のわずか0.5%とほぼ全員が事故のあとの入社になったという。
エンディングの挨拶があった。
エンディング映像。
大悟の芸人領収書の番組宣伝。