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「太平洋戦争」 のテレビ露出情報

箱根駅伝を主催する関東学生陸上競技連盟。ここで見せてもらったのは、戦時中に行われた「関東学徒鍛錬継走大会」の資料。昭和18年1月5日・6日に行われた。箱根駅伝は、太平洋戦争が始まって以来中止されていたが、戦時中に一度だけ開催されていた。その年の10月には、出陣する学徒の壮行会が行われるなど、学生はいつ徴兵されるかわからない情勢だった。学生たちは軍部にかけあい、大会開催を目指すも、戦時下で開催すると軍事輸送の要である東海道が使えなくなることが問題に。そこで、学生たちはスタートを靖国神社にし、戦勝祈願の駅伝にすることで、軍部を説き伏せ、開催にこぎつけた。11校が参加した。当時参加した成田静司さんは、箱根駅伝が終わったら戦争に行く、これで終わりだという思いで、各大学の選手の必死だったなどと話していた。成田さんは復路6区を走り、日本大学の総合優勝に貢献した。日大にある当時の資料には、箱根駅伝の前年の合宿などの写真が残されている。野営で軍事教練する成田さんの姿もあった。最終10区で、日大は3位で襷を繋ぎ、八ツ山鉄橋で順位を上げ、1位でフィニッシュ。成田さんは、レース後、各大学の選手と肩をたたきあった、走り抜いたことでみんなの健闘を祝しあったなどと話した。
箱根駅伝の9ヶ月後、駅伝に参加した学生のほとんどは出征することになった。成田静司さんは、74歳で亡くなるまで50年以上日記を書き続けていた。そこによく記されていたのは、日本大学で7区を走った山手さんの名前。昭和18年11月24日、学徒出陣で出征する山手さんを成田さんは、東京駅で見送った。その後、成田さんも出征。1年が過ぎたころ、成田さんは、特攻隊に入ることになった。戦況は悪化するも、成田さんは、特攻の出撃命令が出ることなく、終戦を迎えた。戦後は、故郷で会社を起こし、家庭を築いた。山手さんの故郷は、広島県福山市。親族のもとに保管されていたのは、戦地に赴くときに残した日本大学の卒業証書など。山手さんは、昭和20年5月10日、フィリピンで21歳で戦死した。成田さんは戦後、山手さんについて語ることはなかったという。箱根駅伝から40年後、成田さんは若者たちに向けて、戦争のない平和の日本の幸福なアスリート諸君よ、青春の血をグラウンドに懸けるのも人生の尊い思い出の一コマではないだろうかなどとの言葉を残している。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年9月16日放送 19:30 - 19:57 NHK総合
クローズアップ現代明治生まれ最後の5人 令和のあなたに送る言葉
明治人に会いたいと全国47都道府県を取材したところ、5人いることがわかった。そのうち沖縄の喜友名靜子さんはおととい113歳で亡くなった。

2025年9月13日放送 5:40 - 5:50 NHK総合
NHK映像ファイル あの人に会いたい(NHK映像ファイル あの人に会いたい)
きんさんぎんさんは合わせて200歳になる名古屋の2人のおばあちゃんで、1991年に全国で初めてNHKが紹介した。以来2人のユーモラスなやり取りは人気を呼んで、国民的アイドルになった。テレビに出るようになって元気が増した2人は102歳で初めての海外旅行に向かった。1892年に愛知県に鳴海村の農家に長女・次女として生まれ、米や野菜を売っていた貧しい小作農で、家は[…続きを読む]

2025年9月11日放送 5:00 - 6:00 NHK総合
NHKニュース おはよう日本(特集)
太平洋戦争後、アメリカは空襲の効果や影響を検証するために、54都市3000人以上に日本の市民に対して聞き取り調査を行った。NHKでは富山市で行われた調査の音声記録を、アメリカの公文書館で新たに発見した。そこには、当時の人達の率直な想いが記録されていた。証言をテキストマーニングで分析したところ、「数多の街は空襲されると思っていたか?」との質問に「工場が標的にな[…続きを読む]

2025年9月11日放送 1:25 - 1:51 NHK総合
Dearにっぽん(Dearにっぽん)
本島から約430キロ離れた西表島、漁や移動手段として使われてきたサバニはレースに使われるようになり、9年前に結成された女性だけのチーム・羽(パニ)がある。徳岡春美さんは夫と息子と3人で暮らしている。サバニを漕ぐ時は「誰々くんの母、徳岡さんの奥さん」ではなく、仕事や子育てから切り離された自分がいると実感するという。
錦ごり(糸へんに赤)尚子さんはダイビングが[…続きを読む]

2025年9月9日放送 20:54 - 21:54 テレビ東京
開運!なんでも鑑定団(開運!なんでも鑑定団)
今回の依頼人は千葉県・船橋市に住む兄弟で骨董収集が趣味の大久保美佐雄さん。お宝は4年ほど前にオークションで170万円で購入した林武の油絵。林武は1896年に東京市・麹町区に生まれ、幼い頃から絵の才能に秀でていた。家が貧しかったことから看板絵の工房に入って他人の描いた絵を売り歩く日々を送り、24歳の時に日本美術学校に入学する。しかしわずか1年足らずで退学し、松[…続きを読む]

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