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「小澤征爾さん」 のテレビ露出情報

音楽により深い色や味わいを求め、演奏者全員に自由を与えながら思い描くイメージにいざなう。小澤さんは「音楽はちょっとでもリズムがずれるとダメ。音程もちょっと低くてもダメ。子供の時から教育を受けているから、それを壊したら大変だと思ってやっている。ところがある時になると、自然に自分の身に入っていると思う。若いときは恐れの方が大きかったけど、年を取ると自信が出たというか信じてやっていれば皆ついてくるというか、そういうのが少し分かってきた。演奏者が持ってきたものを上手く合わせてあげる」などと話した。ビオラ奏者・川本さんは「合図がどのイメージかという情報をくれる。だから開放される。じゃないと音楽まで支配されると、常に緊張してその瞬間に合わせるので固くなってしまう。だけど最初に情報が来て、一緒に他の音楽家と音楽ができるという自由がある」、バイオリン奏者・徳永さんは「奏でるまでに音楽が頭にあれば伝わるものだという感じ。それからどこに行っても100%の自分を出せるという自信を得た。小澤さんの場合は(タクトを)振ることではなく、振るのはあとでついてくること。頭の中に音楽が出来上がっていて、手は踊るように出てくる」などと話す。世界中の音楽ファンから熱い視線が注がれるウィーンフィルのニューイヤーコンサート。2022年、小澤さんは東洋人初となるタクトを握る。元ウィーン・フィルコンサートマスターのライナー・キュッヒルさんに「彼の実験は成功した?」と聞くと「圧倒的な成功でしょう。その素晴らしさは想像を絶しニューイヤーコンサート史上最高の演奏だった」などと答えた。西洋音楽の世界で頂に登りつけた小澤征爾さん。
2010年1月、食道がんが見つかり半年間の活動休止に。再び小澤さんの”命の火”をともしたのは、恩師・斎藤秀雄を偲んで自ら創設した音楽会だった。順調な回復ぶりを見せていた小澤さんだったが、本学復帰の直前に腰を痛めてしまう。医師から許された演奏時間はわずか7分。苦渋の決断を迫られた小澤さんは、チャイコフスキーの弦楽セレナードの第1楽章に情熱のすべてを託す。小澤さんは「仲間ですから。本当に仲間だっていう感じ。すごい嬉しかった。命そのものだった。皆とやっているときは」などと語っていた。仲間と奏でる音楽は指揮者・小澤征爾の命。著書「おわらない音楽」には「中国に生まれ日本で育った僕がどこまで西洋音楽を理解できるのか、一生をかけて実験を続けるつもりだ。おそらくどれだけ時間をかけても終わりはないのだろう。僕はもっともっと深く音楽を知りたいのだ」と綴られている。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年8月29日放送 6:00 - 6:30 NHK総合
NHKニュース おはよう日本イラスト解説 ここに注目!
ことし2月に亡くなった世界的な指揮者・小澤征爾さんが総監督を務めてきた音楽祭「セイジオザワ松本フェスティバル」が今年も開かれている。高橋俊雄解説委員が「小澤さんの没後最初となることしの音楽祭は今月9日に開幕し、小澤さんが中心となって立ち上げたサイトウキネンオーケストラによるコンサートなどが行われてきた。小澤さんが音楽文化を築き上げてきたことに、感謝を伝える場[…続きを読む]

2024年8月18日放送 13:55 - 15:20 テレビ朝日
高嶋ちさ子のザワつく!音楽会(高嶋ちさ子のザワつく!音楽会 〜コンサートの裏側全部見せますSP〜)
高田さんと小学校の同級生・小山宇一さんと出会った。純次さんは地元の下駄屋さんの坊っちゃんでイノウエ先生が彼ばかりひいきにしたなどと話した。純次さんは劇団やってったころその演出家の先生がここの大橋也寸の影響を受けていたなどと話した。ちさ子さんらは桐朋学園を訪れた。

2024年8月6日放送 20:54 - 21:54 テレビ東京
開運!なんでも鑑定団出張!なんでも鑑定団
今回は東京・世田谷区の成城に出張。ここは当時の成城学園(当時は成城第二中学校)が新宿から移転したことを契機に街が発展したことで知られ、小澤征爾らの母校として知られる。1927年に小田急線が開通すると、現在では東宝のスタジオが作られたことでも知られるようになっている。そして、現在は2028年にかけて成城100年祭というイベントが行われ、出張鑑定の招致を希望する[…続きを読む]

2024年6月26日放送 15:10 - 15:55 NHK総合
午後LIVE ニュースーン(オープニング)
ラインナップを伝えた。「打った!24号」など。

2024年6月15日放送 5:40 - 5:50 NHK総合
NHK映像ファイル あの人に会いたい(NHK映像ファイル あの人に会いたい)
小澤征爾は昭和10年中国東北部生まれで歯科医だった父のもと三男として育った。5歳で帰国し小学生の頃ピアノを始めピアニストを夢見ていた。しかし、中学でラグビーに熱中指を骨折した。その後齋藤秀雄から学ぶため桐朋学園の音楽科に進学。短大に進学しアメリカのオーケストラの来日公演を聴いて衝撃を受けた。23歳のときフランスへ出発し半年後にはブザンソン国際指揮者コンクール[…続きを読む]

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