平成元年長崎でアメリカ駆逐艦 船長の献花に抗議した。被爆者の代表、天口仙二さんは献花された花を何回でも踏みつけてやりたいと話した。長崎で原爆にあい、大やけどをおった山口さんは治療を繰り返しながら、被爆者援護と核兵器廃絶運動に力を尽くした。昭和57年「’82平和のための東京行動」の映像が流れた。山口さんが原爆に被曝したときの体験を話した。その後、山口さんを苦しめたのは、原爆症の恐怖だけではなく、結婚や就職等についてであった。
同じ境遇の若者たちと出会い、山口さんは被爆者運動に関わるようになる。ビキニ事件をきっかけに反核運動が巻き起こった。そして原水爆禁止世界大会を契機に日本原水爆被害者団体評議会が発足する。山口さんは被爆者代表として世界各国に出向き核兵器廃絶を訴えた。その後原爆を投下し核大国となったアメリカが大きな壁となった。山口さんはアメリカ各地を行脚した。だがアメリカ人の多くは広島・長崎を知らず逆に問われたのは日本の真珠湾攻撃であった。山口さんは広島・長崎・沖縄・東京全てが戦争の犠牲者であるとした。
被ばくから半世紀、求め続けた被爆者援護法は国の戦争責任が曖昧になったまま成立した。平成21年米国オバマ大統領は核兵器廃絶を訴え、ロシアと核軍縮交渉をまとめる。山口さんはこれについては高く評価している。山口仙二さんは最後まで反核平和を訴え続けた82年の生涯であった。
同じ境遇の若者たちと出会い、山口さんは被爆者運動に関わるようになる。ビキニ事件をきっかけに反核運動が巻き起こった。そして原水爆禁止世界大会を契機に日本原水爆被害者団体評議会が発足する。山口さんは被爆者代表として世界各国に出向き核兵器廃絶を訴えた。その後原爆を投下し核大国となったアメリカが大きな壁となった。山口さんはアメリカ各地を行脚した。だがアメリカ人の多くは広島・長崎を知らず逆に問われたのは日本の真珠湾攻撃であった。山口さんは広島・長崎・沖縄・東京全てが戦争の犠牲者であるとした。
被ばくから半世紀、求め続けた被爆者援護法は国の戦争責任が曖昧になったまま成立した。平成21年米国オバマ大統領は核兵器廃絶を訴え、ロシアと核軍縮交渉をまとめる。山口さんはこれについては高く評価している。山口仙二さんは最後まで反核平和を訴え続けた82年の生涯であった。