6500人の命が失われた阪神・淡路大震災。地震後、衝撃の事実が明らかになった。当日、ヘリコプターで病院に搬送された患者は1人。震災の初動でヘリは物資や救援輸送に使われた。一方で現場に向かう緊急車両は瓦礫に行く手を阻まれた。これを教訓として全国でドクターヘリの導入が始まる。だが、年間2億円の予算がネックとなり、普及には時間がかかった。10年経ってもドクターヘリが配備されなかった鹿児島。しびれを切らした医師・茨聡。地方医療の現実と30年戦ってきた。都市部なら助かるはずの命が鹿児島では助からない。特に赤ちゃんのベッド不足は深刻で署名が起きるほど。市民12万人が訴えていた。茨が率いる鹿児島市立病院は日本初の5つ子誕生を支えた名門。だが、2つの半島から県内唯一の新生児集中治療室までは時に2時間以上。周産期の赤ちゃんの死亡率は全国ワーストクラスだった。茨が行政に直談判して導入したのが医師が駆け付けて治療するドクターカー。たまたま生まれた場所が悪かった、そんな不運を無くしたかった。2011年、鹿児島にドクターヘリが導入され、茨はすぐにヘリを運用する救急科の吉原秀明に相談を持ち込んだ。赤ちゃんの搬送には繊細な肺を傷付けないよう酸素量を変えられる呼吸器や低体温を防ぐ保育器など特殊な備えと技術がいる。狭く揺れる機内で1分1秒を無駄にしない治療を確立したかった。手を挙げたのは2年目の平川英司。少年時代、成長ホルモンが十分に分泌されない難病だった。自分を救ってくれた医療に恩返しがしたいと医師を志した。平川が2年がかりで作り上げたのが呼吸器や保育器・生体情報モニターが一体となった独自の新生児搬送システム。ストレッチャーと交換するだけで瞬時に乗せられる。1分1秒を縮めるため消防との訓練を重ねたのは救急科の吉原。救命救急センターの片隅にヘリと同じ狭さの小部屋を作り、空き時間にもシュミレーションする熱の入れようだった。救急の専門医と新生児の専門医が手を組み異例の態勢ができた。導入から5年で赤ちゃんへの出動は全国最多の250件。隣の熊本が地震に襲われたのはそんな頃だった。倒壊の危機に瀕した熊本市民病院は地域の基幹病院。新生児内科の井上武は集中治療室の様子に愕然とした。看護師たちが赤ちゃんが寝るベッドを床に降ろして覆い被さり必死で守っていた。しかし、保育器を抱えて避難できる場所などない。井上はかつて鹿児島市立病院に勤務。どんな不利も言い訳しない茨の薫陶を受けてきた。だが、地震は容赦なく襲い、赤ちゃんを守るだけで精一杯。38人の小さな命が助けを求めていた。