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「御巣鷹の尾根」 のテレビ露出情報

御巣鷹の尾根を訪れる遺族を見守り続ける人がいる。黒沢完一さんは約20年前から村の委託を受け登山道などの管理を担っている。険しい斜面に造られた登山道。道の周辺には一人ひとりの名前が刻まれた墓標が建てられている。1985年8月12日、羽田発大阪行きの日本航空123便。ほぼ満席で飛び立った。離陸から12分後、突然機体後部が大きく壊れ操縦が困難な状態に陥る。32分間迷走しながら飛行し、群馬・上野村の山中に墜落した。機体が発見され救助が始まったのは翌日の朝。乗客乗員520人が犠牲になり、単独の航空機事故としては史上最悪の惨事となった。それから40年が経った。黒沢さんは慰霊に訪れる遺族を支え続けているが、訪れる人は年々減ってきているという。黒沢さんが案内してくれた墓標には赤いパーカーが備えられていた。
パーカーを備えてきた滝下史代さん(82)は、事故で11歳だった次男の滝下裕史くんを亡くした。兵庫県にある叔母の家に遊びに行くために1人で飛行機に乗った。事故直後、滝下史代さんが現地に駆けつけたときの映像。遺体が安置された体育館に通ったが裕史くんはなかなか見つからなかった。9日後、見つかったのは体の一部だけだった。事故の後、毎年8月、史代さんは夫の政則さんとともに御巣鷹の尾根に登り続けてきた。必ず持参したのが裕史くんが好んできていた赤いパーカー。慰霊登山の中止を余儀なくされたのが2020年。新型コロナの感染拡大で外出を自粛したときだった。その時夫婦は管理人の黒沢さんにパーカーを託した。3年前、政則さんは心筋梗塞で亡くなった。正則さんが亡くなった後、史代さんも御巣鷹の尾根に行くことができなくなっている。
この40年間、事故の記憶をつなぐことに力を注いできた遺族がいる。美谷島邦子さんは、7月23日、日本航空本社で講演を行った。事故を直接しる社員がほとんどいなくなる中、美谷島さんは安全への意識を強く持ってほしいと訴えた。美谷島さんは9歳だった次男の美谷島健くんを亡くした。夏の甲子園を観戦するための初めての一人旅だった。現場で見つかった健くんの遺品を取り出した美谷島さんは、見つかったときのまんまなので土がそのままついている、などと話していた。家族を失った悲しみや怒りとどう向き合っていけばいいのか。美谷島さんは事故の4か月後、遺族などで作る8.12連絡会を立ち上げた。連絡会が事故の翌年から始めたのが文集を作ること。遺族たちがその時時の思いや近況を綴り、毎年発行してきた。タイトルは茜雲。1996年、事故で夫を亡くした妻が寄せた手記には、「あと一度だけでもいい、私達はパパに会いたい」などと書かれていた。事故から5年の1990年、息子(25)を亡くした父が心情を綴っている。事故から30年、50歳の父をなくした娘は、その後母と生きてきた思いを綴った。手記を寄せることで遺族たちはやり場のない悲しみや怒りを共有し、事故後の人生を生きてきた。しかし茜雲は事故から30年、一旦休止することになった。それでも共に活動してきた遺族たちの顔を思い浮かべながら、美谷島さんは10年ぶりに文集を作ることを決めた。今回手記を寄せたのは32人。綴られているのは40年をどう歩み、いまなにを感じているのか。
これから先、事故の悲惨さと犠牲になった人の思いをどう伝えていくのか。その問いと向き合っているのが河口眞理子さん。父・博次さんは単身赴任先に帰る途中事故に会い、52歳で亡くなった。事故の数週間前に家族で食事をした時の写真。当時大学院生だった眞理子さんは進路の相談をしようとしていた矢先に事故を知った。家族が大切に保管してきた遺品が、事故の現場で博次さんの胸ポケットから見つかった手帳。激しく揺れる機内で書かれた父のメッセージが残されていた。眞理子さんはいま、この手帳を寄贈して広く公開して、多くの人に見て貰う必要があると考え始めている。一方、父が自分たちに書き残したものを手放すことへのためらいもあるという。大学で教鞭をとっている眞理子さん。企業の社会的責任などを研究し、食品会社のアドバイザーも務めている。眞理子さんの人生に影響を与えてきたのが、手帳に記されていた幸せな人生だったという言葉だった。自分の人生を支えてくれる父の手帳は、多くのひとに役立ててもらえるのではないか。事故から40年の眞理子さんの思い。
遺族たちの文集・茜雲に今年初めて手記を寄せたのは、工藤理佳子さん。事故で妻をなくした工藤康浩さんと8年後に結婚し、支えてきた。理佳子さんは夫とともに事故後を生きてきた経験を次の世代に伝えていきたいと考えている。結婚する半年前、御巣鷹の尾根の初めて登った理佳子さん。その時のことが忘れられないという。夫の康浩さんは事故の後不眠に悩み、飲酒の量が増えていた。そんな康浩さんを理佳子さんは支え続ける。ほぼ毎年、御巣鷹の尾根に康浩さんといっしょに登り続けてきた。理佳子さんと過ごす中で、徐々に心が落ち着くようになっていったという康浩さん。地域のコミュニティーに加わり、自らの経験を語れるようになったという。苦しむ遺族とともに歩んできた経験を伝えることにも意味があるではないか。理佳子さんはいま、康浩さんとともに若い世代と議論を始めている。この日の最後、茜雲に寄せた手記を読み上げた。事故で亡くなった康浩さんの妻に宛てたものだった。
11歳で亡くなった次男のために、赤いパーカーを備えてきた滝下史代さん。今年は近くに住む友人に買ってきてもらった。登山道の管理をしている黒沢さんにパーカーの交換を頼んだ。遺族たちがそれぞれの思いで事故と向き合い続けてきた40年。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年8月1日放送 19:30 - 19:57 NHK総合
首都圏情報 ネタドリ!(オープニング)
40年前の8月12日、日本航空のジャンボ機が墜落し、520人の命が失われた。墜落現場の御巣鷹の尾根には慰霊碑が造られ、毎年遺族たちが追悼に訪れる。一人ひとりの命がここで失われたという事実は何年経っても変わらない。多くの遺族が高齢化し、来ることが叶わない人もいる。遺族たちの40年経った今の思いを見つめた。日本航空ジャンボ機墜落事故・遺族はいま。

2025年4月30日放送 5:00 - 6:00 NHK総合
NHKニュース おはよう日本(ニュース)
日航ジャンボ機墜落事故からことしで40年となる。墜落現場となった御巣鷹の尾根への登山道が解禁され遺族などが慰霊の登山を行った。1985年8月、羽田発-伊丹行の日本航空ジャンボ機が墜落し520人が犠牲となった。当時を知る日本航空社員は去年3月時点で全体の0.5%まで減り、事故を知らない世代が大半となっている。会社は関係者などの話を映像で保存する取り組みを進めて[…続きを読む]

2025年4月29日放送 21:00 - 21:30 NHK総合
ニュースウオッチ9(ニュース)
日航ジャンボ機墜落事故からことしで40年となる。墜落現場となった御巣鷹の尾根への登山道が解禁され遺族などが慰霊の登山を行った。

2025年4月29日放送 19:00 - 19:30 NHK総合
NHKニュース7(ニュース)
日航ジャンボ機墜落事故の現場・御巣鷹の尾根への登山道が解禁された。1985年8月12日、日本航空のジャンボ機が墜落し520人が犠牲となった。事故から40年となる今年、当時を知る日本航空社員は去年3月時点で全体の0.5%まで減り事故を知らない世代が大半となっている。会社が進めているのは関係者などの話を映像で保存する取り組み。証言の映像化に協力した松元さんは消防[…続きを読む]

2024年9月28日放送 5:30 - 6:00 フジテレビ
週刊フジテレビ批評カメラマンたちが語った 重大ニュース取材の舞台裏
1985年8月13日に報じられた日航機墜落事故の映像を紹介。日航機墜落事故では犠牲者520人と史上最悪の航空機事故となった。当時、取材に帯同していた元カメラマンの小林は夜は危ないため夜が明けるのを待って取材し、事故現場に到着したときに被害者が生存しているのを確認した時、涙が出てきたなどと明かした。日航機墜落事故の動画が100万回以上再生されていることについて[…続きを読む]

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