小林昭三さん95歳は、予科練に志願して合格し1944年の冬に入隊した。予科練とは海軍の飛行兵を要請する機関。飛行兵の要請を急ぐ軍の意向を汲んで、学校は盛んに予科練への志願を進めた。小林さんが入隊した時、爆弾を抱えて突っ込む特攻は既に始まっていた。学校は命を失う可能性があると知りながら、予科練に生徒を送り出した。全国の旧制中学校には、予科練に何人志願させろというノルマが課せられたことがあった。鈴木忠煕さんは、愛知県立旭丘高校の前身・愛知一中の生徒だった。当時、愛知一中には47人のノルマがあったが生徒の関心は低く、学校は講堂に約700人を集め、校長や教師、軍の将校が志願を迫ったと卒業生が書き残している。刺激を受けた生徒たちは異常な興奮状態に陥り、ほぼ全員が志願を決意したという。忠煕さんも志願し予科練に合格した。しかし、忠煕さんはその後出撃して戦死した。一方、小林さんは出撃せずに終戦を迎えた。戦後、教師になった小林さんは当時の学校について「戦争中は自由がなく、半権威や批判的な思想が生まれてこない。」などと話した。
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URL: http://www.asahigaoka-h.aichi-c.ed.jp/
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