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「ルイ」 のテレビ露出情報

戦後最も愛された版画家との異名を持つ斎藤清。1907年に会津坂下町で生まれるが父の事業が失敗し北海道にわたり、母・ルイも亡くなってしまう。唯一の慰めが絵を描く事となった24歳の時に上京し、独学で油彩画を描き続けた。転機となったのは29歳のときで、安井曾太郎の版画を目にすると衝撃を受けて自らも版画の道を志す。初歩的な技法も知らない中で描かれた「少女」は純真な姿を描いた作品となっている。1937年に26年ぶりに会津を訪れると、厳しい自然の科目な美しさに惹かれこの風景を版画で表現することを志した。あらゆる技法に挑みエッチング技法を取り入れた「瞳(白椿)」や、油絵のような質感の「ミルク」、新印象派の点描を彷彿とさせる「港、小樽」などを生み出した。サンパウロ・ビエンナーレ展に出品した「凝視(花)」は少女の顔を花と合わせるという大胆な作品で、あえて顔に木目を出した斬新な作品で日本人賞を獲得。かつては1枚16ドル程という評価額はマンハッタンのギャラリーで1500ドルもの評価額に変わっていった。「画は構図との戦いダベ」と口にしてきた斎藤は余計なものを一切描かず色彩を最小限に抑ながらも新たな技法を探し求めてきた。その一方で素朴さのあるハニワや土器など日本古来の文化に魅了され、全国を旅して作品を作ってきた。1970年に鎌倉に居を移すと「春の鎌倉 門 円覚寺」など古刹を題材としていった。そして、最後に手掛けたのは故郷・会津であり、雪が降り積もり静寂に包まれながらも懐かしくほっとさせる佇まいを描いた「白い雪が要らないところを消して 描きたいものだけを残してくれる」と雪の美しさについて斎藤は話し、90歳で他界するまでに「会津の冬」を題材とする作品は115点生み出されている。そして、今回の依頼品は北海道大学で着想を得ユーモラスでほのぼのとした「HOKKAIDO(C)」、物憂げな女の横顔と塔のシルエットに板の木目を活かした「TOWER(B)」、鎌倉での作であり手前に木を後に古刹の重厚な門を配し静かな空気感が引き立たされている「GATE KAMAKURA (F)」、赤・紺・黄のコントラストが凛とした美を引き出している「威厳」、代表作として名高く寂寥の中に暮らしの息吹を感じることのできる「会津の冬(89)大野」の5点。

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