54年前の3月に開幕した「大阪万博」について。当時は映像記録として8ミリフィルムが大流行していた。その8ミリで万博パビリオンの建設~解体を記録した方が大阪・豊中市にいる。
訪ねたのは大阪・豊中市に住む合原さん(90)。合原さんは大阪にあるアマチュア映画愛好会の会長で、これまで数々のコンクールで賞を取ってきた腕前の持ち主。早速その腕前を見せてもらった。字幕には「EXPO スイス館」「ツリーの最後」のタイトルが。そこには光り輝くパビリオン「光の木」とそれが解体されるまでが克明に記録されている。当時、合原さんは大手建設会社に勤務で、会社から任されたのは完成までの公式記録音撮影だった。建設を担ったのはスイス館の「光の木」。アルプスの樹氷を模したオブジェだった。直径55メートル・高さ21メートル・約3万個の電飾で輝くという奇抜なデザイン。そこで導入されたのが当時最新鋭だったコンピューター。強度テストを何度も重ねるなど、試行錯誤が続いた。1年半の月日を経てようやく「光の木」が完成。会場でひときわ目立つ「光の木」は待ち合わせ場所として人気スポットに。夜には光り輝く姿に多くの人が魅了された。こうして約6か月間の万博が終了。会社から頼まれた仕事は終わりのはずだったが、合原さんは撮影をやめなかった。ここからの撮影はもちろん自腹。複雑な設計のため解体には4か月がかかった。太陽の塔で有名な万博記念公園。パビリオンのほとんどが解体され、当時の面影はあまりない。「光の木」があった場所には現在、国立民族学博物館が建っている。フィルムで変わりゆく「光の木」を移していた水面はそのままで、「ここに”光の木”があったんだなと思い出す」と話す。忘れられないワンカットは池に映る「光の木」。作品のエンディングを合原さんは「いつか人々はこの地を再び訪れ、『確かにここに光の気があった』とつぶやくに違いない」と締めている。
訪ねたのは大阪・豊中市に住む合原さん(90)。合原さんは大阪にあるアマチュア映画愛好会の会長で、これまで数々のコンクールで賞を取ってきた腕前の持ち主。早速その腕前を見せてもらった。字幕には「EXPO スイス館」「ツリーの最後」のタイトルが。そこには光り輝くパビリオン「光の木」とそれが解体されるまでが克明に記録されている。当時、合原さんは大手建設会社に勤務で、会社から任されたのは完成までの公式記録音撮影だった。建設を担ったのはスイス館の「光の木」。アルプスの樹氷を模したオブジェだった。直径55メートル・高さ21メートル・約3万個の電飾で輝くという奇抜なデザイン。そこで導入されたのが当時最新鋭だったコンピューター。強度テストを何度も重ねるなど、試行錯誤が続いた。1年半の月日を経てようやく「光の木」が完成。会場でひときわ目立つ「光の木」は待ち合わせ場所として人気スポットに。夜には光り輝く姿に多くの人が魅了された。こうして約6か月間の万博が終了。会社から頼まれた仕事は終わりのはずだったが、合原さんは撮影をやめなかった。ここからの撮影はもちろん自腹。複雑な設計のため解体には4か月がかかった。太陽の塔で有名な万博記念公園。パビリオンのほとんどが解体され、当時の面影はあまりない。「光の木」があった場所には現在、国立民族学博物館が建っている。フィルムで変わりゆく「光の木」を移していた水面はそのままで、「ここに”光の木”があったんだなと思い出す」と話す。忘れられないワンカットは池に映る「光の木」。作品のエンディングを合原さんは「いつか人々はこの地を再び訪れ、『確かにここに光の気があった』とつぶやくに違いない」と締めている。