1990年代若者を中心に経験の浅いドライバーが急増し夜中に無謀な運転を繰り返していた。日本の交通事故死者数は年間1万人以上。悲惨な状況は交通戦争と呼ばれていた。政府はメーカーに安全な車の開発を要請。各社は対応を急いだ。小さな自動車メーカーでも開発が始まった。富士重工業は当時生産台数は最下位だった。メンバーはたったの4人。十川能之は人の真似事が嫌いな生粋の技術者。十川たちの試作は2台のCCDカメラ。人間の目のようにカメラを付けて車間距離や障害物をはじき出す運転支援システム。危険を察知し警報を鳴らしドライバーにブレーキを踏むなど、安全運転を促すもの。この開発を軌道に乗せるため招集されたのが43歳の紺野稔浩だった。どんなときも怒らない仏の紺野と呼ばれていた。紺野はシステムの試作品を見て当分、商品化は無理だと思った。映像を解析するコンピューターが荷台を埋め尽くしていた。1997年、日産の技術者がシステムの話を聞きつけ、その技術を譲ってほしいと言ってきた。紺野は絶対に渡してはだめだと会社に掛け合い、10人のメンバーを募った。集まった若手の中にいわくつきの技術者がいた。それが柴田英司。行動力はピカイチだが上司にも噛みついてくるとウワサされていた。柴田は試作品をみて「こんなの世の中に出せないっすよ」と言い放った。1998年、柴田は夜、工場に呼び出された。カメラで夜の道路状況を認識する実験だった。実験の途中、白線がないことに気付いた。トイレットペーパを白線代わりにしようとしたがうまくいかなかった。しかし柴田はゼロからものを生み出す開発現場に喜びを見いだし始めていた。上司の紺野は柴田の知識と行動力を信じて開発を任せた。