- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 紺野稔浩 柴田英司 丸山匡
2004年、日本の交通事故は史上最多の952720件。交通事故ゼロを夢見て車の開発に挑む者たちがいた。これは困難な目標を実現した開発者の挑戦と成長の物語。
オープニング映像。
森花子が自動ブレーキを体験。今回は車に搭載されている安全システム開発物語。ルームミラーの横に2つのカメラがついており、危険を察知すると自動的にブレーキがかかる。こうしたシステムが搭載された車の事故率はだいたい半分くらいに抑えられている。
1990年代若者を中心に経験の浅いドライバーが急増し夜中に無謀な運転を繰り返していた。日本の交通事故死者数は年間1万人以上。悲惨な状況は交通戦争と呼ばれていた。政府はメーカーに安全な車の開発を要請。各社は対応を急いだ。小さな自動車メーカーでも開発が始まった。富士重工業は当時生産台数は最下位だった。メンバーはたったの4人。十川能之は人の真似事が嫌いな生粋の技術者。十川たちの試作は2台のCCDカメラ。人間の目のようにカメラを付けて車間距離や障害物をはじき出す運転支援システム。危険を察知し警報を鳴らしドライバーにブレーキを踏むなど、安全運転を促すもの。この開発を軌道に乗せるため招集されたのが43歳の紺野稔浩だった。どんなときも怒らない仏の紺野と呼ばれていた。紺野はシステムの試作品を見て当分、商品化は無理だと思った。映像を解析するコンピューターが荷台を埋め尽くしていた。1997年、日産の技術者がシステムの話を聞きつけ、その技術を譲ってほしいと言ってきた。紺野は絶対に渡してはだめだと会社に掛け合い、10人のメンバーを募った。集まった若手の中にいわくつきの技術者がいた。それが柴田英司。行動力はピカイチだが上司にも噛みついてくるとウワサされていた。柴田は試作品をみて「こんなの世の中に出せないっすよ」と言い放った。1998年、柴田は夜、工場に呼び出された。カメラで夜の道路状況を認識する実験だった。実験の途中、白線がないことに気付いた。トイレットペーパを白線代わりにしようとしたがうまくいかなかった。しかし柴田はゼロからものを生み出す開発現場に喜びを見いだし始めていた。上司の紺野は柴田の知識と行動力を信じて開発を任せた。
紺野稔浩と柴田英司がスタジオに登場。安全システムを作るチームは会社の中では、ほとんど相手にされないチームだった。紺野は「最先端のシステムは過去の経験が通用しない。何をやっていいかわからない。若い人の知恵を借りるしかない」などと話した。
2000年交通事故の数は増え続けていた。他社は危険を察知するレーダーや衝撃できつく閉まるシートベルトなど新技術を発表していた。富士重工業も運転支援システムのプロジェクトを強化。メンバーは20人を超えた。紺野は部長に昇進。次のリーダーに名乗り出たのは柴田だった。開発担当の十川能之はカメラを改良。様々な道路環境を認識させた。柴田はあらゆる危険を察知してドライバーに知らせようと考えた。2003年、車線逸脱警報や路面凍結警告など8つの機能を盛り込み、売り出した。搭載価格は70万円。しかし285台しか売れなかった。警報を促してもあとの操作はドライバー次第だった。次々に部品の故障が発生しクレームが殺到した。柴田は自ら客の元に謝罪に向かった。その時、客から「この機能がないと困る」と言われた。たくさんの人が使ってくれれば必ず事故が減らせると希望が見えた。しかし2005年、富士重工業の経営が悪化。初めて700人規模のリストラをすることが決まった。社内では柴田たちのシステムが槍玉にあたった。こんなシステムはいらないと開発予算は20分の1に下げられ、メンバーの削減も決まった。十川もチームを去ることになった。柴田は上司の紺野に「これから俺はどうすれいいんですか?」と叫んだ。すると紺野は「それをお前が考えるんだ」と怒鳴った。このとき柴田の中で何かが変わったという。
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柴田英司は「2人でダメだったらもうやめようって言ってました。お客さんからの言葉は相当勇気になった」などと話した。
2005年、存続の危機になった運転支援システムのプロジェクト。柴田の元には12人のメンバーが残った。当時入社4年目・丸山匡はつまらなかったら辞めてやると斜に構えていた新時代、面倒な質問もすべて受け止めてくれる柴田の優しさが忘れられなかった。行き場をなくしていた高橋靖は柴田に一緒にやろうと誘われ、やってやるかという気持ちになったという。紺野は柴田に助け舟を出した。群馬県庁に地元企業への補助金を担当する職員がいると教えてくれた。担当者は古仙孝一。話を聞いたがこれでは補助金は難しいと思った。柴田は引き下がらず改めて考えた。そこで警報だけではなく自動でブレーキがかかるところまで実現しようと考えた。この話を聞き、半年後、補助金が下りた。しかし金額は開発1年分だった。柴田はブレーキ制御は丸山に託した。さらに画像認識を最高レベルにまで高めるため、チーム全員で日本の主要道路を次々と走破した。しかし、どうしても夜の雨がクリアできなかった。窓ガラスについた水滴で映像は滲み、光が反射し前の車を正確に認識できなかった。柴田がこの課題を託したのは中途入社の齋藤徹だった。齋藤徹はライバル会社でやりがいを見出だせず柴田の元にやってきた。ある日、齋藤はテールランプだけを認識させることを思いついた。メンバーたちは雨の千葉へと向かった。すると夜の雨でも見事に車間距離をはじき出した。2007年秋、開発した新機能を社内でプレゼンするときがきた。柴田が用意した動画を見た役員は商品化にGOサインを出した。2010年、完全停止を実現。搭載した車の事故率は6減り、世界で累計600万台以上を売り上げた。
柴田英司は「ようやく終わったかって感じ。もうこんな開発は2度とやりたくないって思った」などと話した。柴田の元で開発を担当した丸山匡が登場。柴田からかけられた「新人なのに質問攻めでうるせーな。でもそれでいい」「丸山くんの限界はSUBARUの限界だ」などと柴田語録を紹介。紺野稔浩は「柴田さんは頼もしい。また何かしでかすなってそういう雰囲気が感じられる」などと話した。
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完全停止の実現から2年後、大手もその後を追いはじめた。今新たに発売される日本車にはブレーキシステムの搭載が義務付けられている。たった4人から始まったプロジェクトは今や数百人規模のメンバーがいる。丸山匡は柴田の跡を継ぎ部長になった。生意気と言われていた柴田英司は4月から役員になった。このチームは2030年までに交通死亡事故、ゼロを実現しようとしている。
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エンディング映像。
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