79年前、広島や長崎で被爆した人たちの知られざる歴史。戦後、被爆者たちは食料や仕事を求めるなどして全国各地に移ったが、北海道に渡った人は、1000人とも2000人ともいわれている。毎年、広島原爆の日に札幌で開かれてきた追悼式。主催するのは、北海道被爆者協会。北海道で暮らす被爆者たちを中心に、およそ60年前に作られた団体。被爆者たちが遠く離れた地を目指したのは、心ない差別をうけ、遠く離れた地なら少しでも静かな暮らしができるのではと、北海道に移り住んだのだという。しかし、そこで待っていたのは、無知や無関心からくるさらなる差別だった。広島市出身の金子廣子さんは5歳のとき、爆心地から3キロ離れた自宅で被爆。父の故郷の秋田や北海道紋別に移り住んだが、被爆を理由に差別を受けた。金子さんは子どもながらに、被爆者であることを隠して生きていこうと心に決めた。中学1年生のときには、両親が名付けてくれた名前が、当時の廣島県の表記にちなんだものだったため別の漢字に変えた。25歳で結婚、2人の子どもを授かったが、夫は医師から「被爆者だから絶対に子どもは産まないように」と告げられていた。金子さんは被爆の体験を、60年余り語ることはなかった。金子さんは10年ほど前から自らの被爆の過去を公にし、被爆者協会で語り部の活動を始めた。被爆による体調不安もあるが、この夏は北海道の10か所以上の会場を巡り、講演を行う。北海道被爆者協会は、メンバーの高齢化が進み、来年3月に解散することが決まっている。金子さんは協会が解散したあとも、差別を含めた被爆の体験を語り継いでいきたいと考えている。