名古屋城の石垣には多種多様な刻印が刻まれている。数百におよぶ刻印は20の大名たちのもの。北陸から西日本にかけてかつて豊臣家に使えた外様大名たちが石垣の建設にあたっていた。関ヶ原で勝利したとはいえ豊臣家の遺児である秀頼は大阪に健在。家康は秀吉に恩を受けた外様大名たちが寝返らないとも限らないと考えていた。腹の中が見えない外様大名たちの忠義を試すため家康は石垣建設を課した。天下人が諸大名に命じる土木工事は「公儀普請」と呼ばれるこの時代の国家プロジェクト。大名たちが自ら建設資材を調達しなけらばならない負担の大きなミッションだった。細川家の若き当主・細川忠利も普請に挑んだ1人。忠利は資材の調達から現場監督まで一手にに担い、何とか普請を成功させようと奮闘。忠利にとってこの普請はまだ若い自分が細川家の家督を継ぐものとして認められるための使命を背負ったプロジェクトでもあった。