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オープニング映像。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが勃発。徳川家康の東軍と石田三成の西軍が激突しあわせて15万の軍勢が争った。勝利を収めた家康は江戸幕府を開くが、大阪には未だ巨大な力を持つ豊臣家がいた。さらに関ヶ原以降家康に従った外様大名たちは次の大戦に供え各地の城の大改修に着手。世に言う「慶長の築城ラッシュ」。緊張状態が続く中、家康は誰よりも多く徳川の城を築いていった。1609年、家康は名古屋城の築城を決断。西の大群が攻め入ってきた場合迎え撃つための城としての建設だった。名古屋城に張り巡らされた石垣は総延長8.2キロ。天守の高さは55.6m。空襲で消失する前は日本史上最大の延床面積を誇る圧巻の巨大木造天守だった。戦への防御の他、権力を誇示する狙いもあったとみられている。織田信長は安土城、豊臣秀吉は大阪城、徳川家康は名古屋城と天下人を象徴する城はすべて天守が巨大だった。
名古屋城の石垣には多種多様な刻印が刻まれている。数百におよぶ刻印は20の大名たちのもの。北陸から西日本にかけてかつて豊臣家に使えた外様大名たちが石垣の建設にあたっていた。関ヶ原で勝利したとはいえ豊臣家の遺児である秀頼は大阪に健在。家康は秀吉に恩を受けた外様大名たちが寝返らないとも限らないと考えていた。腹の中が見えない外様大名たちの忠義を試すため家康は石垣建設を課した。天下人が諸大名に命じる土木工事は「公儀普請」と呼ばれるこの時代の国家プロジェクト。大名たちが自ら建設資材を調達しなけらばならない負担の大きなミッションだった。細川家の若き当主・細川忠利も普請に挑んだ1人。忠利は資材の調達から現場監督まで一手にに担い、何とか普請を成功させようと奮闘。忠利にとってこの普請はまだ若い自分が細川家の家督を継ぐものとして認められるための使命を背負ったプロジェクトでもあった。
サムライたちが天守の建設を担った一方、大工棟梁の中井正清は天守・御殿の建築責任者となっていた。家康から全幅の信頼を寄せられ「大和守」という役職名を与えられていた正清は大酒飲みとして知られていたが関ヶ原以降、家康の城のほとんどに関わった稀代のカリスマ大工だった。全国各地から集まる土木作業員と意識を共有するため図面を作りそれをもとに工事を行うという最先端の建築を実施。正清が造る天守の特徴は「塔のような均整のとれた美しさ」。この時代、同じ形の構造物を積み重ね建築を行うことが可能となり、高い塔のような天守が造られるようになった。天守は単なる軍事要塞の意味を越え、当時最高峰の建築物となっていった。名古屋城建設のために集められた大工たちは総勢541人。天守の建築を急ぐよう命じる書状を受け取った正清は天守の工事担当者を増員し、ベテラン大工には柱や梁の工事を担当させ新参者の能力は正当に評価するなど適切な采配を振るった。この時代に一種の勤務評価をつけていたことは非常に先駆的なことで自らできる大工を選定していたことがうかがえる。
総延長8キロにおよぶ石垣工事も急ピッチで進められた。工期はわずか9か月。石垣に使われた石を切り出したのは現在の岐阜県海津市の山中。石に穴を空け鉄の矢を打ち込み巨大な石を割る矢穴技法を使い石を切り出していた。現在の研究ではこの矢穴技法が日本に持ち込まれたのは秀吉の朝鮮出兵の際ではないかといわれている。それまで日本の建築物には全くみられなかった矢穴が朝鮮出兵以降、各地の城でみられるようになったという。
家康は秀吉と違い、戦を繰り返すよりも公儀普請で城を作り戦の世を終わらせることを望んでいた。名古屋城の建設現場では当時20の大名の持ち場が細かく振り分けられ一つの区画を複数の大名が共同で担っていたがかつての敵や今も対立する大名の配置には一定の配慮があったという。家同士が隣り合う境目ではそれぞれの家が持つ技術が用いられていたため建築様式や石の積み方などに明確な差がみられるが、木下家と細川家が隣り合う境目では違いが判然としない。今回、番組が独自で調査を行ったところ、他の家の境目に比べ木下家と細川家では石の積み上げる角度や傾斜などほとんど技術に違いがみられないことがわかった。それはサムライたちが技術を一つに合わせて石を積み上げた証ではないかと専門家は分析した。細川忠利が国元へ送った書状には普請の現場で各地の大名と交流を深めていた様子が記されている。戦いが続き謀反や裏切りが日常だった戦国時代。多くの大名が終止符を打とうとしたが叶わなかった。家康が目指した「乱世の終焉」は名古屋築城によって現実へと近づいていった。
アメリカの文化人類学者スコット・D・カーク氏は世界459の城を分析。日本の近世城郭にある「特異性」を指摘した。カーク氏によれば外国の城の多くが都市から離れて築城されているのに対し、日本の城の多くは都市に深く関わって存在している。島根県にある国宝・松江城もその1つ。それまで藩の当主が城を構えていたのは山城・月山富田城だった。町の真ん中にある松江城に居を移すことによって水運などのアクセスがよくなりモノや人の行き来が増え交易が盛んに。結果、人々の生活は豊かになっていった。築城ラッシュの時代、同じように城下町とともに築かれた城は各地で生まれ今も31都市がこの頃の城下町を礎とし県庁所在地になっている。
1612年(慶長17年)、名古屋大天守が完成。着工からわずか3年だった。その3年後の大阪夏の陣で豊臣家は滅亡。天下泰平の世が到来した。これ以降250年もの間、大名同士が戦で争うことはなかった。名古屋城は1930年城郭として第1号の国宝に指定。1945年の空襲で消失した後は鉄骨鉄筋コンクリート造で再建。以降、今も変わらぬ街のシンボルとして名古屋の町にそびえ立っている。
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