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- 織田信長
戦国時代の終わりから江戸時代にかけて造られた近世城郭は日本各地に点在。その大きな特徴は石垣・瓦ぶき・天守だ。元々、日本の城はこのような姿とは異なるものだった。戦国時代の終わりまでは自然の山を削って築く土の城が一般的だった。石は用いず堀や土塁で守りを固めていた。建物や門に葺かれていたのは瓦ではなく手間のかからない板。天守のような高層建築もなかった。土の城から近世城郭に大きな変革をもたらしたとされる城が安土城。信長公記によれば1576年に築城を始め、完成には6年の歳月を要したとされている。羽柴秀吉や丹羽長秀など名だたる家臣団が築城に参加。石垣・瓦ぶき・天守の3つの様子を初めて備えたとされる姿は「天下無双」と記されている。
戦国日本の覇者として知られる織田信長は元々は小国・尾張の一領主に過ぎなかった。しかし、桶狭間の戦いで海道一の弓取りと呼ばれた今川義元を打ち破ったのを機に頭角を現す。その後も戦いに明け暮れ、長篠の戦いでは大量の鉄砲を用いて武田家に勝利。戦いを通じた勢力拡大の中で信長はいくつもの城を築いていた。第一の城は1563年、29歳の時に初めて築いた小牧山城。今、大掛かりな発掘調査が進んでいる。長い間、この城は当時一般的だった土の城と考えられてきた。調査の結果、信長時代の石垣が大量に出土した。当時石垣は京の都の寺院などで用いられていて、極めて珍しいものだった。小牧山城の石垣は後の時代の石垣に比べて格段に低く、防御力もそれほど高くなかったと考えられている。その一方で重い石を積み上げていく作業は土や木に比べて大きな手間と時間がかかる。上空と地上から山全体をスキャン、最新3D技術を駆使して石垣の全貌を明らかにしようと試みた。石垣の積み方に技術的な限界が示されていたが、一気に高い石垣を築いたような見え方をしているという。信長公記には小牧山に城ができていくのを見て敵方は勝ち目がないと判断して城を明け渡したという記述がある。
信長が美濃を攻略、第2の城・岐阜城を築いた。岐阜城があったのは長良川の辺にそびえる金華山。山麓と山頂から信長時代の石垣が出土している。この場所から瓦が大量に発見された。当時はまだ城造りにおいては一般的ではなかった。出土した瓦の中には飾り瓦が見つかった。信長が暮らしていた山の麓の館に使われていたと考えられている。飾り瓦の化学分析を行うと金箔が貼られていた痕跡が見つかった。信長の館には黄金に煌めく瓦が使われていたとみられる。黄金の瓦を目にするのは長良川の辺にあった港を利用する人々だった。信長は楽市令を掲げ日本各地から人々を呼び込んでいた。城を中心に豊かな商業都市を作り上げる信長の経済ビジョンが込められていた。当時、日本にいたキリスト教の宣教師の記録からは、信長が見せる城の持つ力に大きな関心を寄せていたことが伺える。
1568年、当時京の都を追われていた足利義昭を手助けし、ともに上洛を果たした。しかし5年後、信長は義昭を都から追放。室町幕府は滅亡へ向かった。この新たな時代の到来に大きな役割を果たした城があることがわかってきた。天守が初めて誕生したのはこれまで安土城においてだと考えられてきた。同時代の記録には旧二条城に天主が存在していたと記されている。ただ、これまで建物の跡が見つかっていないため記述の真偽は裏付けられていなかった。近年、表面は探査という科学的手法で地中を調査したところ、堀の痕跡が見つかった。このデータとこれまでの発掘調査の成果を照合した結果、旧二条城の知られざる構造が浮かび上がってきた。復元した本丸の形を見ると“出隅”があった。後の時代に造られた全国各地の城では多くの場合、出隅の上に天守が建てられている。上洛を果たした信長だったが、日本各地は尚強力な大名たちが支配している一触即発の緊張状態が続いていた。さらに、都の周囲に残る豪族などとも激しく対立、天下統一に向け厳しい局面に立っていた。
一方、ともに上洛し将軍となった足利義昭は度々襲撃を受け命を狙われていた。義昭は新たな城の建造を計画。この時、自らその役目を担うと宣言したのが信長だった。宣教師の記録によれば、旧二条城の建設作業に従事したのはおよそ2万人。この大規模な城造りの現場をも信長は見せる力に変えようとした。「天下の名石」として時の権力者に寵愛されてきた藤戸石を、信長は家臣たちに賑やかに囃し立てさせながら旧二条城に運び込んだ。将軍の威光、自らの力を知らしめるかつてない奇策だった。さらに、天主を建てる場所に選んだのは都のメインストリート室町通りのど真ん中だった。こうして都の人々を驚嘆させた高層建築・天主が誕生。その威勢は遥か遠くの国の大名のもとにも響き渡った。越後を本拠とする上杉家には事実とは全く異なる誇張された風聞が伝わっている。都の空に高くそびえる天主を見せつけることで、天下人の権威を視覚化した。その後、義昭と袂を分かち京の都から追放。200年続いた室町幕府に終止符を打ち、天下人としての権威を我が物にしていく。1576年、天下統一の総仕上げとして安土築城へと乗り出した。
安土城の建造は昼夜を問わず行われ、その様は山も谷も動かんばかりだったと伝えられている。過酷な現場では落石事故によって一度に150人以上が命を落としたことも。現在、建物はほとんど失われ、当時の姿を目にすることはできない。ことし3月、安土城の発掘調査で出土した遺物の調査が進められていた。大量に発見されたのは天守に使われていたと考えられる屋根瓦。記録によれば、瓦の制作にあたったのは一観という人物。一観は“唐様”中国風の瓦を作るよう命じられていた。ところが、発掘現場から出土したのは日本で広く用いられてきた形の和様の瓦ばかり。安土城が築かれた16世紀後半、瓦の色といえばいぶし瓦の黒が一般的だった。宣教師や僧侶が書き留めた色付きの瓦こそが唐様の瓦ではないかという。信長の命を受け明智光秀が築いた坂本城の屋根瓦は化学分析によって色の正体が判明した。焼き方によって赤と黒の色を出したと考えられる。赤瓦はいぶし瓦に比べ強度が落ちるが、人の目を引く美しさを放っている。
中国の紫禁城は建物に使われる様々な色が使われていて、荘厳なイメージや権威を表現している。安土城のために造られた唐様の瓦は色彩の力で人々に新時代の到来を告げる信長の城造りの集大成だったのかもしれない。1581年、安土城が完成した。安土城を訪れ、実際に天守を目にした宣教師はその姿をヨーロッパの最も壮大な城に並び立つものであると評している。完成した安土城の姿を描かせた屏風を信長が宣教師に託したという記録が残っている。今、国際共同調査チームがその行方を探している。屏風はヨーロッパで貴重な宝物として扱われていた。安土城の完成からわずか1年後、信長は本能寺の変でこの世を去る。その直後、安土城の天守が消失した。おととしの発掘調査では、天守を支える石垣から敢えて城を破壊する破城の痕跡が見つかっている。信長の城の役割が終わったことを象徴的に示すように後継者となった羽柴秀吉が命じたのではないかと考えられている。
織田家が所有していた犬山城。近年、研究者が天守の建材を調査したところ新たな事実が判明した。木材の伐採された年代が特定された。それは安土城が焼け落ちてからわずか3年後の1585年のことだった。規模を小さくしながらも外観の意匠と構造は安土城と非常に近い。やがて、信長のち苦情思想は日本各地へと広がっていく。
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