学生の頃に脚本家を志し、ニッポン放送に入社した倉本。ADから人気脚本家へと駆け上がり、他局のテレビ番組の脚本も担当。ラジオでも多くの番組を掛け持ちするようになった。ニッポン放送を辞めた後、順風満帆な脚本家活動を行っていたが、1974年大河ドラマ「勝海舟」の脚本を担当していた際、NHKの上層部と大喧嘩。倉本が週刊誌に内部事情をリークしたと責められ、精神的に限界を迎えた際、気がつくと千歳空港にいて北海道へ向かったという。自分でもなぜ北海道へ行ったのかわからないという倉本に知り合いの記者は「人間負けると北へ行く。敗北って言うでしょう」と言ったといい「なるほどなって」と話した。北の大地で北海道の人々の優しさに触れ、感激した倉本は北海道に住むことを決意。「一度生き直そう」と決め、北海道で一番寒暖差が激しく自然が厳しい富良野へ移住した。