関ヶ原の盆地の真ん中あたりにやってきた。古くからの宿場町で、1000年前から続く旅館を見つけた。元々東山道と呼ばれ都と東日本をつなぐ重要な街道だった。交通の要衝であることが決戦の地になったことに関係している。南北に険しい山地があるため東軍が西に攻め入るには関ヶ原が最短ルート。関ヶ原を突破されると琵琶湖や京都、大阪などに攻め込まれてしまうため、西軍の石田三成にとって関ヶ原は死守しなければならない場所だった。そこで石田三成とともに幼い頃から豊臣秀吉に仕えていた親友・大谷吉継に東西の通り道である東山道の守りを任せた。関ヶ原の戦いでは東軍も西軍も一致団結しておらず、全国から武将をかき集めて戦っていた。