今回の舞台は山形県にある離島・飛島にある法木集落。暮らしているのは17世帯24人、うち65歳以上が19人の限界集落。初日、定期船を降りて一番奥へ。宿泊場所として空き家をお借りできた。海が一望できる。まずはご挨拶をするために区長宅にやってきた。区長兼最年長漁師の長濱修さんと妻のみや子さんにご挨拶。修さんが自慢の釣り道具を見せてくれた。区長の修さんと同級生で同じ現役最年長漁師の齋藤雅雄さんを訪ねると、タモの修理をしていた。2人の最年長漁師は釣具を手作りしていた。
朝5時20分。8月下旬、島ではサザエ漁が最盛期。取り過ぎないよう漁は日の出から午前11時まで。午前11時20分、修さんが戻ってきた。1日1便が基本の定期船に乗せて出荷。一箱8キロになるようにサザエをこん包する。妻が数えて夫が箱詰めをするという役割分担。余ったサザエは海へ。次の漁でとったサザエと合わせて8キロにして出荷する。ここで暮らす男性10人中6人が漁師。齋藤半一さんは60年前に島ではじめて車を買ったことが自慢。集落一の働き者の渡部和夫さん、朝はサザエ漁、夜は刺し網漁やマグロ漁も行う。根っからの漁師と聞いていたが、意外にも船酔いをしてしまうという。
この日は島の診療所の診察日。週に2日、海を渡って医師がやってくる。区長の修さんは漁を続けるために定期的に首と腰に痛み止めの注射を打っている。高度な医療をうけるためには定期船で大きな病院にいかなければならない。修さんは、外から見たら不便でも生きるってこんなものだと話した。
第2週。夕方に訪ねたのは島で開催された交流会の会長。集落の最年少・1歳になったばかりの芙海ちゃん。芙海ちゃんのおじいちゃんは船酔いする漁師の和夫さん。母の陽子さんは一度は町で就職したが13年まえに島に帰ってきた。今は旅館の女将として働いている。集落で38年ぶりに誕生した子ども。この日は1歳になった芙海ちゃんのお祝いの行事が行われ、仙台から夫の真信さんが駆けつけた。漁師の幸一郎さんは病気になった3年前から市街地で暮らしているが、3か月に一度は島に帰ってくる。集落に帰ったときは家の修理をしながらひたすら漁に出ている。昭和50年代まで現在の10倍となる250人が暮らし、港には船がひしめき合っていた。狙ったのはイカで島に活気をもたらしていた。幸一郎さんは能登半島沖から北海道沖まで1年の半分は漁に出て4人の子どもを育てた。自力で生きるという精神は子ども頃から育まれた。グラウンドでは島の大運動会が行われていたが、過疎化が進み33年前に廃止となった。以来、グラウンドから歓声が響くことはなくなった。島のシンボルだったイカも不漁が続き船も減っている。幸一郎さんは残ったものもある、残らなかったものもあると話した。ディレクターは風邪をひいた。海を渡って薬を調達し、そのまま街場のホテルで療養。
第3週。ディレクターは風邪も治り3日ぶりに集落にもどってきたがあいにくの天気。悪天候で定期船の欠航が増えるのは夏が終わっていくサイン。集落を離れている間に幸一郎さんたちは町に帰っていた。次に来るのは3か月後。午後3時、山に向かってみた。畑仕事をしていたのは渡部とみ子さん。とみ子さんの畑があるのは急な坂道を15分歩いた山の上。かつてはこの一帯が耕作地だったが今は多くが荒地になった。それでもとみ子さんは自分の畑は守りたいという。独立し島を離れた子どもたちには定期船で野菜を送っている。夫の源一郎さんは腕利きの漁師だったが5年前に亡くなった。イカ漁から帰ってくるとよく畑仕事を手伝ってくれたという。別の日、とみ子さんは自宅周辺の草むしりをする。畑も自宅の周りも家族との思い出の場所はきれいにしておきたい。とみ子さんは家族との思い出を守り続けている。
第4週。数日続いていたしけがおさまってきた。まだ波が高いため、修さんはお休みモードだったが、雅雄さんが船を出しているのを知って修さんも気が変わり漁に出た。雅雄さんが漁から帰ってきた。かつては集落一の腕前と言われていたが白内障を患っていらい視力が落ちてしまった。それでも漁を続けるために1か月前にメガネを購入した。この日、修さんがサザエ漁につれて行ってくれた。箱メガネでのぞいて海藻の中からサザエを探し出す。日本海の荒波に飲まれたサザエは大粒で身が引き締まっているのが特徴。修さんは4時間以上漁を続けた。午前11時、帰港。港では妻のみや子さんがいつも夫の帰りを待っている。きょうも妻がサザエを数えて夫がこん包する。この日、修さんは午後にも漁に出ていた。ヒラマサ、マグロを釣ってきた。修さんは“かか”との漁は終わらせないと話した。ロケの終わり、ドローンで集落を撮影した。
朝5時20分。8月下旬、島ではサザエ漁が最盛期。取り過ぎないよう漁は日の出から午前11時まで。午前11時20分、修さんが戻ってきた。1日1便が基本の定期船に乗せて出荷。一箱8キロになるようにサザエをこん包する。妻が数えて夫が箱詰めをするという役割分担。余ったサザエは海へ。次の漁でとったサザエと合わせて8キロにして出荷する。ここで暮らす男性10人中6人が漁師。齋藤半一さんは60年前に島ではじめて車を買ったことが自慢。集落一の働き者の渡部和夫さん、朝はサザエ漁、夜は刺し網漁やマグロ漁も行う。根っからの漁師と聞いていたが、意外にも船酔いをしてしまうという。
この日は島の診療所の診察日。週に2日、海を渡って医師がやってくる。区長の修さんは漁を続けるために定期的に首と腰に痛み止めの注射を打っている。高度な医療をうけるためには定期船で大きな病院にいかなければならない。修さんは、外から見たら不便でも生きるってこんなものだと話した。
第2週。夕方に訪ねたのは島で開催された交流会の会長。集落の最年少・1歳になったばかりの芙海ちゃん。芙海ちゃんのおじいちゃんは船酔いする漁師の和夫さん。母の陽子さんは一度は町で就職したが13年まえに島に帰ってきた。今は旅館の女将として働いている。集落で38年ぶりに誕生した子ども。この日は1歳になった芙海ちゃんのお祝いの行事が行われ、仙台から夫の真信さんが駆けつけた。漁師の幸一郎さんは病気になった3年前から市街地で暮らしているが、3か月に一度は島に帰ってくる。集落に帰ったときは家の修理をしながらひたすら漁に出ている。昭和50年代まで現在の10倍となる250人が暮らし、港には船がひしめき合っていた。狙ったのはイカで島に活気をもたらしていた。幸一郎さんは能登半島沖から北海道沖まで1年の半分は漁に出て4人の子どもを育てた。自力で生きるという精神は子ども頃から育まれた。グラウンドでは島の大運動会が行われていたが、過疎化が進み33年前に廃止となった。以来、グラウンドから歓声が響くことはなくなった。島のシンボルだったイカも不漁が続き船も減っている。幸一郎さんは残ったものもある、残らなかったものもあると話した。ディレクターは風邪をひいた。海を渡って薬を調達し、そのまま街場のホテルで療養。
第3週。ディレクターは風邪も治り3日ぶりに集落にもどってきたがあいにくの天気。悪天候で定期船の欠航が増えるのは夏が終わっていくサイン。集落を離れている間に幸一郎さんたちは町に帰っていた。次に来るのは3か月後。午後3時、山に向かってみた。畑仕事をしていたのは渡部とみ子さん。とみ子さんの畑があるのは急な坂道を15分歩いた山の上。かつてはこの一帯が耕作地だったが今は多くが荒地になった。それでもとみ子さんは自分の畑は守りたいという。独立し島を離れた子どもたちには定期船で野菜を送っている。夫の源一郎さんは腕利きの漁師だったが5年前に亡くなった。イカ漁から帰ってくるとよく畑仕事を手伝ってくれたという。別の日、とみ子さんは自宅周辺の草むしりをする。畑も自宅の周りも家族との思い出の場所はきれいにしておきたい。とみ子さんは家族との思い出を守り続けている。
第4週。数日続いていたしけがおさまってきた。まだ波が高いため、修さんはお休みモードだったが、雅雄さんが船を出しているのを知って修さんも気が変わり漁に出た。雅雄さんが漁から帰ってきた。かつては集落一の腕前と言われていたが白内障を患っていらい視力が落ちてしまった。それでも漁を続けるために1か月前にメガネを購入した。この日、修さんがサザエ漁につれて行ってくれた。箱メガネでのぞいて海藻の中からサザエを探し出す。日本海の荒波に飲まれたサザエは大粒で身が引き締まっているのが特徴。修さんは4時間以上漁を続けた。午前11時、帰港。港では妻のみや子さんがいつも夫の帰りを待っている。きょうも妻がサザエを数えて夫がこん包する。この日、修さんは午後にも漁に出ていた。ヒラマサ、マグロを釣ってきた。修さんは“かか”との漁は終わらせないと話した。ロケの終わり、ドローンで集落を撮影した。
