佐藤は千葉の敬愛学園高等学校でキャプテンを務めた。3年のインターハイで優秀選手に選ばれ、高校選抜にも名を連ねた。高校卒業後には名門筑波大学へ。大学2年出迎えた全日本インカレでは、そのプレーが当時日本代表の監督の眞鍋政義の目に留まり、22年には日本代表に選出。身長178センチで力強いスパイクと強烈なサーブで流れを変える切り札として期待をよせた眞鍋は、次世代を担う3人をブレイクスリーと名付けた。佐藤はその1人だった。代表選出から5か月、世界バレーを1ヶ月後に控えた代表合宿で佐藤の歯車は狂い出した。次々にシャットアウトされるスパイク。試合後に監督からアタック効果率というチーム得点の貢献度が伝えられた。各選手には数値がつけられ、佐藤はアタッカー陣として最低の-12%で誰よりもミスが多いという結果に。
9月に世界バレーがスタート。佐藤はリリーフサーバーとして入ったがそれすら決まらず。トップサーバーの成功率が10%とされる中で、佐藤は5%にも満たなかった。初めての大舞台に自信を失っていたという。その後の2年間は佐藤が代表としてコートに立つことはなかった。
9月に世界バレーがスタート。佐藤はリリーフサーバーとして入ったがそれすら決まらず。トップサーバーの成功率が10%とされる中で、佐藤は5%にも満たなかった。初めての大舞台に自信を失っていたという。その後の2年間は佐藤が代表としてコートに立つことはなかった。
