駒澤大学の夏合宿、ムエタイのワイクルーという儀式で神様やコーチに感謝を伝える篠原倖太朗選手。第99回東京箱根間往復大学駅伝競走で2年生時に初出場した篠原選手は当時のエース田澤廉選手からタスキを受け、区間2位となりチームの総合優勝に貢献した。トップ選手しか参加しないアメリカ合宿に参加した。迎えた第100回大会、篠原選手は1区を任され区間賞を記録。しかし3区で青山学院大学に抜かれると往路・復路で挽回できず連覇の夢は途絶えた。翌日新主将に就任した篠原選手は「原点と紡ぐ」をスローガンに掲げた。調子の上がらぬチームを強くするために篠原選手はスイス合宿の参加を見送り、チーム練習を引っ張った。後輩たちはその気持を受け、出雲駅伝で躍動する。しかしアンカーである篠原選手は國學院大學の牙城を崩せなかった。試合後先輩である鈴木芽吹選手に連絡をした。鈴木選手は2位に入ったことは篠原選手の力だと励ました。迎えた全日本大学駅伝、順位を落としたチームを2位にまで引き上げた篠原選手。試合後、区間賞のトロフィーを失速した桑田駿介選手に渡す篠原選手。いつか桑田選手が区間賞を勝ち取るまで貸し出すという。主将としてお篠原選手の最後の仕事はチームを勝たせることとなる。