八代亜紀さんが亡くなっていたと知らされたのは今年1月のことだった。代表曲の1つでもある舟唄はなぜこのような曲となったのか。謎を解く鍵は熊本県八代市にあった。原点となったのは小学生時代。コーラス部を指導していた恩師が思い出を語った。コーラス部は5・6年の児童のみだったが、練習時にいつも見ている低学年の女児がいて、それが八代亜紀だったという。やりたいか訊ねると元気な肯定する声が返ってきたため、一緒に活動することになったという。特徴的なハスキーボイスだったが、声を矯正することはせず、ソロの部分を作り、皆でハモリで盛り上げる工夫をしたという。こうして歌にのめり込んだ八代亜紀は歌い手を目指すように。15歳の時には年齢を偽り、クラブの歌手となった。八代亜紀自身はハスキーな自身の声が嫌いだったという。ところがコンプレックスが武器となり、1971年にデビュー。舟唄との出会い秘話を紹介。レコード会社が作詞を依頼したのは阿久悠。阿久悠は女心を何十枚も書いたというが、レコード会社が何個も断り、結局阿久悠が作ったのは男歌だったという。阿久悠は舟唄の詞について、「当時スポーツ新聞に連載していた阿久悠の実践的作詞講座で教材として書いたものである」と明かしていた。作曲家の浜圭介も「八代亜紀のハスキーボイスだからこそ名曲になった」などと評していた。八代亜紀のハスキーボイスが舟唄のラストピースだった。八代亜紀は死の直前まで地元ラジオ局の冠番組に出演し続けていた。八代の人のためにと無償で協力していたという。