茶屋一族とはいったい何者なのか。それを知る手がかりが、ホイアン郊外にある五行山に残されている。ベトナム国内でパワースポットとして知られる五行山。大理石でできた洞窟には阿弥陀如来が置かれ古くから人々の信仰を集めてきた。その一角に400年前に作られたという一枚の石碑がある。五行山ガイドのフィン・ダン・フォンさんは、五行山にお寺を作る際に寄付をした人の名前だと説明。沢山日本の文字があり、その中に日本国茶屋という文字があった。実は朱印船貿易の絵図「茶屋新六交趾渡航図巻」は茶屋一族が残したもの。茶屋一族は元々ky校とで呉服屋を営んでいた商人で、家康に経済的支援を行なっていた。しかしこの一族はただの商人ではない。天正10年、家康の運命を変える本能寺の変が起こる。当時、信長と同盟関係にあった家康は、大阪の堺に滞在していた。その家康に信長の死を伝えた人物こそ茶屋四郎次郎だった。小和田泰経はなんにも知らずに京都に向かっていたらもしかしたらどこかで明智光秀の配下に囲まれて大変なことにあっていたかもしれない、などと語った。その後伊賀越えの際、茶屋は命を狙うものに対し、行く先々でお金を配り脱出工作を行なった。そして大坂冬の陣で茶屋は大仕事をやってのける。イギリスから最新式の大砲を手配し、砲弾が大坂城の本丸に命中し豊臣は和睦に傾いたとされる。翌年大坂夏の陣で豊臣はついに滅亡。こうして家康は天下統一を果たした。