- 出演者
- 野々村真 草野仁 石井亮次 黒柳徹子 岡田圭右(ますだおかだ) アンミカ 福地桃子
慶長6年。関ケ原の合戦で勝利し、天下統一まであと一歩まで迫っていた徳川家康。そこに生糸と謎の木片がある国から届けられた。この2つが天下人への重要な鍵を握っていた。ベトナム中部のダナンにあるミーケビーチにやってきた中山卓也。一年を通し世界中から観光客が訪れるベトナムきってのビーチリゾート。家康にプレゼントを贈ったのはベトナムでかつて栄えた広南という国の王様だった。奥に沢山木が並んでいるお店のオーナーのゴー・ミーさんは、お香に使う香木の一つで沈香と呼ばれるものだと説明。沈香は1キロあたり日本円だと4500万円するという。なぜ家康は沈香と生糸を求めたのか。そこには天下統一への重要な戦略が隠されていた。さらにベトナムに渡った謎の秘密部隊がいた。その名は茶屋一族。
オープニング映像。
今夜の世界ふしぎ発見はベトナムを舞台に家康の天下統一に隠された秘密を探っていく。ベトナムの超高級沈香は1キロ4500万円。黒柳徹子は香り気になりますかと聞かれ、お願いしますと答えていた。
ベトナムのダナンへはベトナム航空が毎日運行している。そこから車で1時間の街に家康ゆかりの町がある。それがホイアン。ホイアンはベトナムを代表する古都で、旧市街は世界遺産にも登録されている。さらに、400年前に中国から伝わったランタンが、今では街の風物詩となっている。家康と繋がる場所が街の中心部に残されている。400年前に作られたとされる来遠橋は現在は修復中だが、本来ホイアンを代表する観光スポット。この橋の修復にJICAとともに携わっているのが東洋大学の篠崎正彦教授は、日本橋と言われている橋だといい、江戸時代の始め朱印船貿易で来た日本人たちがこの町に住んでいて、皮を渡るのが大変なので作られた橋だと言われていると説明した。この日本橋はベトナムの2万ドン紙幣にも描かれている。慶長5年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、朱印状を与え、アジアの国々を相手に朱印船貿易をはじめた。当時広南は最大の貿易相手で、玄関口だったホイアンには多くの日本人が暮らす日本人町が存在した。当時日本から輸出していたのが銅。現在のベトナム通貨の単位のドンは日本語の銅が由来だという。
現在のホイアンは約200年前に建物の多くが作り直され、かつての痕跡はほとんど残されていない。だが当時の様子を物語る貴重な資料が、名古屋市東区の情妙寺に残されているという。住職の林教一サンが持ってきた茶屋新六交趾渡航図巻には御朱印船が描かれていて、広南にたどり着くまでの様子が詳細に記されている。絵巻から日本人町は二階建ての家屋が300メートルに渡って続いていたことがわかる。さらに、ちょんまげをした日本人が描かれていた。クアン・カオラウ・バーレーには、カオラウという名物料理がある。カオラウは米粉の麺に醤油ベースのタレを合わせて食べる。これは伊勢の商人が持ち込んだ伊勢うどんがルーツと言われている。
なぜ家康は貿易の拠点にホイアンを選んだのか。その謎を解く鍵はホイアン郊外に残されている。中山卓也がベトナムの世界遺産・ミーソン遺跡へ来た。ミーソン遺跡は山に囲まれた盆地にひっそり残る。家康が広南と貿易を始める以前に反映したチャンパ王国の聖地。この遺跡にはベトナムでは珍しいシヴァ神が祀られている。遺跡ガイドのレ・ベト・タンさんは、インドからヒンドゥー教が伝わり信仰が始まったなどと説明した。ホイアンは地理的にも中継地として最適で当時はアジアを代表する貿易都市だったのだという。
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- ホイアン(ベトナム)ミーソン遺跡徳川家康
古代から高い航海技術を持っていたベトナムの人々。それを物語るのがお椀型の船。竹籠舟は、舟にかかる税金を逃れるため舟に見えなように作ったのが始まりと言われている。中山卓也は漁に同行させてもらった。
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お椀型の船を使ったベトナムの伝統漁に中山卓也が同行。長さ500mの網を仕掛け、しばらく待って引き上げる。引き上げている時に魚を見つけたグエン・バン・ムオイさんは、海に飛び込んで魚を取ってきた。
元々ベトナムでも馴染み深く、最近では日本から持ち込まれたその生き物を愛でるカフェも大人気。ベトナムで?カフェとして大流行している、家康が大好きだった生き物とは?ベトナムでは成功や出世の象徴としてその生き物は大切にされているという。福地桃子は蝶と予想。野々村真は猫と予想。
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ベトナムで”(?)カフェ”として大流行 家康が大好きだった生きものとは?という問題の答えは、鯉。縁起の良い魚として古くからベトナムの人に親しまれてきた鯉。近年、日本から輸入された錦鯉がブームとなり多くの鯉カフェがオープン。ベトナム全土で200軒以上も存在する。ちなみに家康は観賞用ではなく、食べるのが好きだった。
朱印船貿易が始まってから鎖国が完成するまでの約30年間で、実に71隻もの船が広南に向かった。家康が天下統一のために熱望したものが、41 ル・ロイにある。ベトナムの日常などを描いた様々な絵が展示されているが、近づくと刺繍だと分かる。生糸を使い手作業で描くこの刺繍絵画は、一つの作品を完成させるのに最低でも1ヶ月はかかるという。
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- 41 LE LOI SILK
この生糸こそ家康が天下統一のために仕入れた重要なアイテム。慶長6年、広南から届いた生糸を見た家康は、この品を広南から買い集めるように指示した。歴史研究家の小和田泰経さんは、当時の日本はまだそれほど生糸の生産がなかったのでそれを海外に求めたという。なぜ天下統一に生糸が必要だったのか。慶長8年、江戸幕府を開いた徳川家康。しかし以前大阪には豊臣秀頼が勢力を保持していた。家康は豊臣を滅ぼすため着々と準備を進めていた。そこで家康が目をつけたのは国内で需要が高まっていた広南の生糸だった。生糸の輸入に深く関わった一族がいる。それが茶屋一族。
茶屋一族とはいったい何者なのか。それを知る手がかりが、ホイアン郊外にある五行山に残されている。ベトナム国内でパワースポットとして知られる五行山。大理石でできた洞窟には阿弥陀如来が置かれ古くから人々の信仰を集めてきた。その一角に400年前に作られたという一枚の石碑がある。五行山ガイドのフィン・ダン・フォンさんは、五行山にお寺を作る際に寄付をした人の名前だと説明。沢山日本の文字があり、その中に日本国茶屋という文字があった。実は朱印船貿易の絵図「茶屋新六交趾渡航図巻」は茶屋一族が残したもの。茶屋一族は元々ky校とで呉服屋を営んでいた商人で、家康に経済的支援を行なっていた。しかしこの一族はただの商人ではない。天正10年、家康の運命を変える本能寺の変が起こる。当時、信長と同盟関係にあった家康は、大阪の堺に滞在していた。その家康に信長の死を伝えた人物こそ茶屋四郎次郎だった。小和田泰経はなんにも知らずに京都に向かっていたらもしかしたらどこかで明智光秀の配下に囲まれて大変なことにあっていたかもしれない、などと語った。その後伊賀越えの際、茶屋は命を狙うものに対し、行く先々でお金を配り脱出工作を行なった。そして大坂冬の陣で茶屋は大仕事をやってのける。イギリスから最新式の大砲を手配し、砲弾が大坂城の本丸に命中し豊臣は和睦に傾いたとされる。翌年大坂夏の陣で豊臣はついに滅亡。こうして家康は天下統一を果たした。
海のシルクロードを通ってベトナムに持ち込まれ、当時は薬として重宝されていた植物とはなにか。当時はろかいと呼ばれていた。当時の書物を見ると、ものすごく苦くて匂いがきつい、と記されていたという。岡田はヘチマと予想、アンミカなどはアロエと予想。
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Q 朱印船貿易でベトナから持ち込まれ薬として重宝された植物とは?の答えは、アロエ。江戸時代にベトナムより伝来したアロエは、胃腸を整える他、切り傷や火傷にも効果があったため、医者いらずと呼ばれた。ベトナムではジュースに入れて飲まれている。
1キロ100万円の沈香がスタジオに登場。かけらを電気コンロの上に置いていて、香りを黒柳徹子が嗅いで、すっごくいい匂いがしているとコメントしていた。
家康にとって生糸とともに重要だった沈香。この沈香はどのようにとれるのか。沈香バイヤーのグエン・バン・カンさんがやって来たのは民家の裏庭。沈香を生み出すゾウボウ(ジンチョウゲ科)の木の中にできると言い「アリが中に入って傷をつけると木は修復するために樹液を出す、それが長い年月をかけて固まり沈香になる」「大金を出して木を買い取っても何も取れないこともよくある」という。この日、ゾウボウを切り出すと言うのでついていくと、樹齢70年を超すゾウボウを50万円で購入したという。果たして沈香は入っているのか。採れたての沈香を嗅がせてもらうと中山卓也は 華やか!爽やかな香りがするとコメントしていた。
名古屋市東区にある徳川美術館には、徳川家に伝わる特別な沈香が残されていた。学芸員の並木昌史さんは、沈香の中でも最上級のものと伽羅と呼んでおりますと話す。かつてベトナムで算出した伽羅と呼ばれるこの沈香は幻の香木。まさに権威の象徴とも呼べる伽羅は、奈良の正倉院に残されている蘭奢待。調停に代々伝わる巨大な伽羅は、しばしばときの権力者が一日を切り取り力を誇示してきた。香道御家流の三條西堯水さんは、香道とは、東南アジアで採れる香木の香りを楽しむための遊びだという。香道では聞香炉と呼ばれる香炉の上に伽羅などの香木を乗せ香りを閉じ込めるように聞くのがお作法。実は家康は集めた伽羅を調停や公家に献上し、政治工作に利用していたという。