23歳の新田佑さんは親を亡くした子どもを支援するあしながレインボーハウスでボランティアをしている。新田さんもまた、東日本大震災で母と妹2人を失った。家族で過ご した陸前高田に今も時折帰省する。家族でよく訪れたという高田松原には現在防潮堤が作られている。母の牧恵さんは教育熱心で子どものことを一番に考える人だったという。麗さんと琳さん、2人の妹は明るい姉妹だった。14年前家族の生活は一変、当時9歳だった新田さんは受け入れられず、遺体を見たときに泣いてしまったと振り返る。その後、父の貢さんは感情をあらわにするようになり、その感情は怒りにシフトしていったという。次第に新田さんは家の外に居場所を求め、レインボーハウスを訪れるようになった。当時を知る山下さんは当時の新田さんを自分と向き合うことをサケていたように感じたという。高校卒業後、新田さんは東京に進学。お父さんとは疎遠になっていったという。
昨年発生した能登半島地震、新田さんは被災地のためにとボランティアに参加した。また家族を亡くした子どもを探し支援を始めた。能登への訪問は13回を数え、交流を続けた。祖母と母親を亡くしたという中学生の女の子の話を新田さんは聞き続けた。様々な家庭を訪ね、新田さんは親御さんも苦しんでいることに気がついた。その中で親御さんと子どもの苦しみの違いを感じたという新田さん。お母さんが語ってくれた「他人が出来ることはしなくていい、あなたにしかできないことをやりなさい」という言葉を大切にしていると語る。そこから新田さんは臨床心理士を目指すようになった。そして14年間蓋をしてきた自分の感情に向き合うようになっていった。しかし先月、父の貢さんは他界。お父さんと向き合おうと考えた矢先のことだったという。
昨年発生した能登半島地震、新田さんは被災地のためにとボランティアに参加した。また家族を亡くした子どもを探し支援を始めた。能登への訪問は13回を数え、交流を続けた。祖母と母親を亡くしたという中学生の女の子の話を新田さんは聞き続けた。様々な家庭を訪ね、新田さんは親御さんも苦しんでいることに気がついた。その中で親御さんと子どもの苦しみの違いを感じたという新田さん。お母さんが語ってくれた「他人が出来ることはしなくていい、あなたにしかできないことをやりなさい」という言葉を大切にしていると語る。そこから新田さんは臨床心理士を目指すようになった。そして14年間蓋をしてきた自分の感情に向き合うようになっていった。しかし先月、父の貢さんは他界。お父さんと向き合おうと考えた矢先のことだったという。