JR神田駅にちょっと変わった表示板がある。駅の出入り口すべてになじみのある商品名。それを広告展開する企業がアース製薬。いまや虫ケアから総合日用品メーカーとしてその地位を確立している。本社があるのは東京・神田。社員は約1400人、創業は1892年の老舗企業。その陣頭指揮を執る男が川端克宜。42歳というアース製薬歴代最年少でトップに上り詰めた。1994年近畿大学を卒業後アース製薬に入社。配属先は大阪支店営業課。得意先をまわり自社の商品を多く置かせてもらうことが川端の仕事だった。エネルギッシュな仕事ぶりで営業成績を上げていく川端は同期の中でも頭角を現し32歳で課長に昇進。その3年後にはプレイングマネジャーとして大きな転換期を迎える。全国に7つある支店の一つ広島支店長に大抜擢。中国四国エリアを受け持つ広島支店は当時全国7支店の中で売り上げは常に下位争い。競合メーカーのキンチョーやフマキラーに追い上げられていた。当時広島支店では4つの出張所を配置。川端は凝り固まった組織を活性化するためにめまぐるしく配置換えを行った。更に社員たちには小売店など取引先に頻繁に出向くことを指示。そのやり方に当時広島支店の係長だった和田は戸惑った。社員の不安にすぐに変化が現れる。得意先と頻繁に接することで仕事以外の話もする関係に変わっていった。川端自身も新規の顧客を開拓するため自ら車を運転し中国、四国をまわった。マネジャーでありながらプレイヤーとしても営業成績を上げていった川端。そんな川端に振り回されたのが当時7つの支店を統括していた営業企画部長の降矢良幸。こうして広島支店は川端就任後の3年間で売り上げとシェアを伸ばし、7支店の中で伸び率トップとなった。広島で結果を残した川端は38歳で大阪支店長に就任。その2年後ビジネス人生最大の転機を迎えることになる。きっかけは川端の元に届いた1通の封筒、差出人は大塚正富。アース製薬の元会長であり当時の特別顧問だった。そこに書かれていたのは「人生は重荷を背負って険しい坂道を登るが如し。徳川家康の心境になってそれが普通なんだと考えて下さい。そしてもっと苦しくなる要件についてご相談申し上げたいので来る三月二十二日にホテルシティプラザまでご足労下さい」。ホテルのレストランで落ち合った2人。2人の話はまったくかみ合わなかった。すると数日後今度は大塚正富の息子で当時の社長・大塚達也に声をかけられ大阪のホテルで話をすることに。大塚社長は2年後にその職から退くことを公表していた。実は大塚正富は息子の達也から川端を社長にする相談を受けあの会食の場をセッティング。何も知らされていない川端とすでに聞いているものと思っていた大塚との話がかみ合わなかった。