2024年9月29日放送 16:00 - 16:55 テレビ東京

プレイングマネジャーの勇断〜トップへの岐路〜

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(オープニング)
オープニング

オープニング映像。今回紹介するのはクラシエ社長・岩倉昌弘、アース製薬社長・川端克宜、ロフト社長・安藤公基。

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プレイングマネジャーの勇断
プレイングマネジャーとは

プレイングマネジャーとは組織の目標を達成するために部下を育成指導するマネージャーと、会社へ利益をもたらすために現場の最前線で活躍するプレイヤー、その2つの業務を両立するポジションのこと。ある調査では日本の上場企業の部長・課長の約95%はプレイングマネジャー。その役職は日本企業には欠かすことができない重要なポジションになっている。

クラシエ 岩倉昌弘 トップへの岐路

ドラッグストアでよく見かける人気商品「葛根湯」「いち髪」「旅の宿」「甘栗むいちゃいました」、これらを作っているのがクラシエ。商品は知られるが会社名はそれほどなのにはその沿革にある。クラシエの歴史はわずか17年、従業員数は1790人、主力事業は日用品・薬品・食品、計約60ブランド・商品数1000種類以上。クラシエ社長・岩倉昌弘(62)。クラシエの前進はカネボウ。創業1887年(明治20年)、綿商社として創業。1961年、化粧品事業に参入。そのほか日用品・食品・薬品など、当時ペンタゴン経営と称賛された。しかし2004年、巨額の債務超過で事実上の経営破綻、産業再生機構の支援を受けることに。岩倉はまさにその時プレイングマネージャーとして会社再建に向け最前線で奮闘していた。岩倉は1985年、22歳で鐘紡に入社、大阪支社の販売部に配属。優秀な営業成績を収めていく岩倉は2000年、39歳で東京本社の総務で人事課長に。そのころ岩倉は本社の不穏な陰を感じ取る。バブル期に不動産に手を出し巨額の債務超過に陥っていた。その損失の穴埋めに稼ぎ頭だった化粧品部門の利益が使われていた。ところが社内に危機感はなかったという。2002年、40歳で大阪支店販売部30人以上を率いる販売部長に。会社の経営状態が思わしくない中、「金をかけずに売上げをあげろ」と司令が。そんな中、岩倉は転換期に直面。2004年3月、産業再生機構に支援を要請。事実上の経営破綻。産業再生機構の指導のもと、化粧品事業は花王に売却、繊維事業はセーレンに売却。残った日用品・薬品・食品のブランド再生プロジェクトが立ち上がる。当時の看板商品「ナイーブ」をリニューアル、そのプロジェクトリーダーに抜擢されたのが岩倉だった。(日本経済新聞)

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再生への苦闘と決断。岩倉は旧カネボウ側と産業再生機構側の板挟みで気持ちが揺れ動いた。リニューアル会議には産業再生機構側のメンバーも参加。旧カネボウ側と産業再生機構側、当初はお互いが噛み合わないままだった。岩倉たちは資金をかけずにこれまで通りの気合と根性で乗り切るリニューアルを考えていた。一方機構側は大胆に投資をする思い切ったリニューアルを求めていた。岩倉が直面した大きな岐路。決断に踏み切るきっかけは客観的に聞いた両者のやり取りだった。岩倉はそれまでのプライドを捨て積極的に機構側にアドバイスを求めるようになった。旧カネボウのメンバーも理解を示し潮目が変わった。チーム全体で機構側のアドバイスを取り入れ資金も投入していくことになった。そうして岩倉たちが出した「ナイーブ」のリニューアル案はボトルの刷新、詰め替えやすいよう口を大きく広げた。そのため製造ラインに大幅な資金を投入。さらに新たな成分を配合し品質も大幅改良。「ナイーブ」の売り上げはアップ、復活への足がかりを掴んだ。2007年、45歳でクラシエ発足後に執行役員に就任。2018年、57歳でクラシエホールディングス社長に就任。何かを成し遂げるためにはリスクを恐れてはいけない、それをカネボウの破綻から学んが岩倉は今年、クラシエホームプロダクツ、クラシエ製薬、クラシエフーズを1つの会社に統合した。3事業で培ってきたノウハウを融合させ新たな相乗効果を生み出すのが狙い。一方で岩倉は昔ながらの付き合いも大切にしている。この日集まったのは再生プロジェクトで戦ってきた各部門のリーダー。プレイングマネージャーへの提言「あえて難しい道を選んでもいいと思う」。

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ロフト 安藤公基 トップへの岐路

東京・銀座。多くの国民的ブランドが密集するこの並木通りのなかで特に多くの客を集めているのが銀座ロフト。昨年は大リニューアルを行い商品数はおよそ5万5000点にものぼる。ロフトの特徴は見ているだけで楽しくなる商品ラインアップ。昨年度はコロナ前の売り上げを超え過去最高の1071億円を叩き出した。国内で169店舗にまで成長。銀座と並び東京の旗艦店として人気の店が渋谷にもある。1987年ロフトはここで産声をあげた。安藤は渋谷ロフトの創業メンバー。伝説のバイヤーとしてロフト成長の立て役者となった。そんな安藤にもプレイングマネジャー時代に悩み抜いた大きな岐路があるという。

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安藤は高度経済成長のさなか1958年に生まれる。安藤は弁護士を目指し名門の中央大学法学部に入学。しかし司法試験に2回チャレンジするも失敗。ここで人生の岐路が訪れる。来年も司法試験に挑むのか、それとも就職をするのか。司法試験を断念、弁護士の道を諦めた安藤が新たに目を向けたのが当時DCブランドが一世を風靡していたアパレル業界。安藤は情報最先端基地として人気を誇っていた西武百貨店の試験に合格し就職、配属されたのは当時の西武ではおまけのような存在だった趣味雑貨部門。それでもいつかアパレルをやれることを信じ雑貨担当として安藤の社会人生活は始まった。すると6年後、大きな転機が訪れる。当時西武セゾングループの創業者、堤清二がある構想を立ち上げた。これまでにない新たな雑貨の専門店、それがロフトだった。当時雑貨の店といえば東急ハンズの独壇場でロフトが成功するには差別化が必要だった。ロフトのコンセプトは「時の器」、時代と向き合い変わり続けていくこと。当時28歳の安藤が任されたのは6階のワンフロア。そこから安藤はチーフバイヤーとして米国やメキシコヨーロッパ各国など1年間で6か国をまわる。自分が見て楽しくなる雑貨を集めまくった。安藤の買い付けに不安の声もあがるなか、開業するとムービングフロアは連日の大盛況。全フロアの中で売り上げトップになった。渋谷店での成功で以降ロフトは全国に展開していき97年には札幌に大型店を出店することが決まった。このとき38歳の安藤はロフトの命運を左右する大きな岐路に立たされることになる。札幌ロフトの開業にあたって当時専務だった金谷から「札幌では食品をやってみないか」との提案。この提案に安藤は戸惑った。実は当時の社長、安森はロフトはノンフーズノンアパレルと食品は扱わない方針を明言していた。それでもロフトにはバイヤーが商品の選定を自由に決める風土があった。安藤は手に取ってワクワクするような輸入食材の調味料やパスタなどをそろえた。オープン当日の朝、社長の安森が視察にやってきた。結局仕入れた分を売り切ったあと札幌ロフトは食品から撤退。するとその数か月後、今度は大阪・梅田のロフトがリニューアルをすることに。競合店の進出で売り上げが低迷しその商品担当を安藤がやることになった。再び食品をやりたいという強い衝動に駆られるもやはり社長・安森の存在が頭にチラついた。安藤公基は「仕事でやりたいと思ったことはやらなきゃ気が済まない」。ロフトでは初めてとなるワイン売り場まで開設、そこではワインに合う食材を前面に押し出した。安藤は全国の食材を集めた限定イベントを定期的に開いている。バイヤーとして実績を積み上げた安藤は仙台、梅田のロフト館長や商品部の部長など出世の道を歩み2016年に社長に上り詰めた。安藤が始めた食品は商品数を増やし売り上げも順調に伸ばしている。

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アース製薬 川端克宜 トップへの岐路

JR神田駅にちょっと変わった表示板がある。駅の出入り口すべてになじみのある商品名。それを広告展開する企業がアース製薬。いまや虫ケアから総合日用品メーカーとしてその地位を確立している。本社があるのは東京・神田。社員は約1400人、創業は1892年の老舗企業。その陣頭指揮を執る男が川端克宜。42歳というアース製薬歴代最年少でトップに上り詰めた。1994年近畿大学を卒業後アース製薬に入社。配属先は大阪支店営業課。得意先をまわり自社の商品を多く置かせてもらうことが川端の仕事だった。エネルギッシュな仕事ぶりで営業成績を上げていく川端は同期の中でも頭角を現し32歳で課長に昇進。その3年後にはプレイングマネジャーとして大きな転換期を迎える。全国に7つある支店の一つ広島支店長に大抜擢。中国四国エリアを受け持つ広島支店は当時全国7支店の中で売り上げは常に下位争い。競合メーカーのキンチョーやフマキラーに追い上げられていた。当時広島支店では4つの出張所を配置。川端は凝り固まった組織を活性化するためにめまぐるしく配置換えを行った。更に社員たちには小売店など取引先に頻繁に出向くことを指示。そのやり方に当時広島支店の係長だった和田は戸惑った。社員の不安にすぐに変化が現れる。得意先と頻繁に接することで仕事以外の話もする関係に変わっていった。川端自身も新規の顧客を開拓するため自ら車を運転し中国、四国をまわった。マネジャーでありながらプレイヤーとしても営業成績を上げていった川端。そんな川端に振り回されたのが当時7つの支店を統括していた営業企画部長の降矢良幸。こうして広島支店は川端就任後の3年間で売り上げとシェアを伸ばし、7支店の中で伸び率トップとなった。広島で結果を残した川端は38歳で大阪支店長に就任。その2年後ビジネス人生最大の転機を迎えることになる。きっかけは川端の元に届いた1通の封筒、差出人は大塚正富。アース製薬の元会長であり当時の特別顧問だった。そこに書かれていたのは「人生は重荷を背負って険しい坂道を登るが如し。徳川家康の心境になってそれが普通なんだと考えて下さい。そしてもっと苦しくなる要件についてご相談申し上げたいので来る三月二十二日にホテルシティプラザまでご足労下さい」。ホテルのレストランで落ち合った2人。2人の話はまったくかみ合わなかった。すると数日後今度は大塚正富の息子で当時の社長・大塚達也に声をかけられ大阪のホテルで話をすることに。大塚社長は2年後にその職から退くことを公表していた。実は大塚正富は息子の達也から川端を社長にする相談を受けあの会食の場をセッティング。何も知らされていない川端とすでに聞いているものと思っていた大塚との話がかみ合わなかった。

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アース製薬川端に突然の社長就任オファー。受けるべきか、断るべきか。結局社長からのオファーは保留というかたちでその日は終わった。しかし翌年、川端は41歳で役員に任命されると、その1年後に改めてあった社長就任のオファーを正式に受諾する。2014年42歳でアース製薬初のプロパー社長に就任。10人の役員をごぼう抜きする人事だった。この人事にかつて川端と経費の件で押し問答をした上司の降矢良幸は「全然知らなかった」。その降矢は現在副社長として川端を支える存在に。川端が社内に作った施設。常に新たなことを探し続ける川端にとってプレイングマネジャーとは「部下に任せたらいい。俺がなんとかするからなってできるのはプレイングマネジャーしかできない」。

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テレ東BIZ、TVer U-NEXTで配信と伝えた。

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