1986年当時の金沢駅。その駅前を管轄する金沢市には新しい広場の建設計画に着手したのは1992年のこと。白羽の矢がたったのは当時最年少で日本建築学会賞作品賞を受賞した白江龍三氏。この時金沢市からの要望は駅の機能の確保、徹底したバリアフリー、金沢らしさだったという。金沢は加賀藩前田家の城下町で、江戸時代より工芸品の生産や、能などの芸能が盛んで独自の文化を育んできた。その400年の歴史をもつ金沢市らしさを求められたが白江氏は、次の400年のために400年残る建築を作ろうと提案したという。いくつものアイディアを考え、膨大な条件をクリアした結果全面ガラス張りの建築に。最先端の技術を使い鉄よりも長持ちする美しいアルミ合金を使用したドームになった。広場を流れる水の使い方では、市内を流れる用水から引き上げている。金沢は、用水の街で市内の中心には代表的なもので三本の用水が巡っている。その一つが辰巳用水。兼六園の池にも使用され、金沢駅東広場にも流れていくという。水の動きは能や雅楽で使用される序破急のリズムがいかされている。
当初広場の設計案にはなかったものは鼓門。金沢工業大学の水野さんは広場の設計最中に市民に駅には木造や黒い瓦があるといいとの意見があったという。白江さんはその意見を聞いて、技術美というコンセプトでデザインしていたがなんとか市民の声を受け止め金沢の人々が親しんできた能の鼓をデザインに取り入れた。純和風の格天井だが柱の構造では斜めに傾けた12本の柱を楕円状に配置しその内部に12本の柱を配置するという独特な構造になっているが揺れた際にはどこかの柱が耐える構造になっているというが、鼓門には、ガラスドームから流れていくる雨水を再利用するために地下に送る貯水槽に送るための管が通っている。地下広場の換気口も備わり加賀の伝統文化と新しいシンボルに。
当初広場の設計案にはなかったものは鼓門。金沢工業大学の水野さんは広場の設計最中に市民に駅には木造や黒い瓦があるといいとの意見があったという。白江さんはその意見を聞いて、技術美というコンセプトでデザインしていたがなんとか市民の声を受け止め金沢の人々が親しんできた能の鼓をデザインに取り入れた。純和風の格天井だが柱の構造では斜めに傾けた12本の柱を楕円状に配置しその内部に12本の柱を配置するという独特な構造になっているが揺れた際にはどこかの柱が耐える構造になっているというが、鼓門には、ガラスドームから流れていくる雨水を再利用するために地下に送る貯水槽に送るための管が通っている。地下広場の換気口も備わり加賀の伝統文化と新しいシンボルに。