当時の病院内を克明に記録した貴重なビデオが残っている。なだれ込むように傷病者を運び入れる医師や看護師たち。実質的に島で唯一の救命救急病院だった兵庫県立淡路病院には地震発生から2時間がたった頃から搬送が相次いだ。あちこちで心肺蘇生法=CPRが実施されていく。野戦病院と化し混乱を極める救急外来。医師の一人が撮影したこの映像は震災発生当日の救急医療の現場を映した唯一の映像とされている。当時3年目の内科医で、この日は当直明けだった水谷和郎さんは、あの日の院内の光景が脳裏から離れることはない。生死の境界線を引く過酷な決断を前に生じたためらい。そんなとき一人の医師の声が響いた。現場の指揮を執っていた外科部長の松田昌三さんが蘇生を中止するよう命じた。
緊急度や重症度に応じて治療の優先順位を決める「トリアージ」。当時はまだ社会にほとんど浸透しておらず国内の災害で実践されたのは阪神淡路大震災が初めてだとされている。1月17日、兵庫県立淡路病院では10代の2人を含む6人に蘇生中止の末、死亡診断が下された。究極の決断を淡々と下す松田さんを目の当たりにしたときの心境を水谷さんは今でも覚えている。震災発生から8年後、トリアージを実行した松田さんはこの世を去った。淡路病院を離れた水谷さんはその後、あの日の記憶からは目を背けるようになったという。しかし震災発生から10年目、震災を経験した医療従事者と、そうでない医療従事者との間で災害への意識に大きな差があると痛感する。いつかまた大災害が起きたときのために災害医療の厳しさを少しでも知ってもらおうと、あの日の記憶と映像に向き合うことを決めた。以来毎年ビデオを使って医療の世界を目指す学生や病院関係者などに講義や講演を続けている。ビデオを使った講演や講義は20年間で100回を超えた。あの日の現場に立ち会った医療人としての責任と覚悟を胸に水谷の活動は続く。
緊急度や重症度に応じて治療の優先順位を決める「トリアージ」。当時はまだ社会にほとんど浸透しておらず国内の災害で実践されたのは阪神淡路大震災が初めてだとされている。1月17日、兵庫県立淡路病院では10代の2人を含む6人に蘇生中止の末、死亡診断が下された。究極の決断を淡々と下す松田さんを目の当たりにしたときの心境を水谷さんは今でも覚えている。震災発生から8年後、トリアージを実行した松田さんはこの世を去った。淡路病院を離れた水谷さんはその後、あの日の記憶からは目を背けるようになったという。しかし震災発生から10年目、震災を経験した医療従事者と、そうでない医療従事者との間で災害への意識に大きな差があると痛感する。いつかまた大災害が起きたときのために災害医療の厳しさを少しでも知ってもらおうと、あの日の記憶と映像に向き合うことを決めた。以来毎年ビデオを使って医療の世界を目指す学生や病院関係者などに講義や講演を続けている。ビデオを使った講演や講義は20年間で100回を超えた。あの日の現場に立ち会った医療人としての責任と覚悟を胸に水谷の活動は続く。