農民・豊臣秀吉、弟・秀長兄弟について静雄赤大学名誉教授・小和田哲男が解説。小和田は「弟は普通の農民。秀吉が信長に認められ出世したとき、白羽の矢が立った。小一郎長秀という名で出てくる。秀吉に仕えたのではなく、信長に仕え、信長から長をもらったからだろう」「越後の上杉謙信との手取川の戦いで、秀吉が柴田勝家と意見対立して先生から勝手に帰っちゃう。軍律違反で信長から謹慎を命じられる。秀長が黒田官兵衛と交渉、地盤がためをした」と説明した。秀長は山陰側、秀吉は山陽側の攻略を担当。信長の死後、秀信に名前を変えたとみられる。小和田は「天正11年賤ヶ岳の戦いに注目」「秀吉が岐阜城。現場を明けたところ秀吉が戻るまで守リ待った」「秀長あっての豊臣政権」「秀長は溜め込むタイプ」「秀吉は暴走タイプ。秀長は抑えるタイプ」「秀長がなくなった後晩年の暗黒事件、千利休を切腹させる、豊臣秀次を切腹させる。文禄・慶長の役、豊臣政権の悲劇に続く」と話した。
住所: 京都府京都市東山区高台寺下河原町526
URL: http://www.kodaiji.com/
URL: http://www.kodaiji.com/